2000/02/01

日 記

#茶碗むし(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

「日記なんだから、毎日書けよ!」

なんて、怖ろしいことは言ってはいけない。そう言われれば、売り言葉に買い言葉・・・

「おー! 書いたらぁー」

 ってことになるに違いない。

 しかし、密かに度々、毎日書いてやろうって誘惑に捕らわれたのも事実で、書く素材なんてのは、日常になんぼでも存在してるんだから、そんなに苦労しないに決まってる。

 だけど、書けない。なんでだろ?

 まぁ、平日は仕事のことばっか考えてるに違いないので、仕事のことといえば、書けないことだらけだ。でも、しかし仕事の中に生活という日常はどうしても混在してしまうので、やっぱり素材に事欠くことはない。

「なら、書けよ!」

 そう、そうなんだけどね。正直言って飽きる。毎日続けるということは如何に大変なことか。いっそのこと日記依存症なんて病気になってしまえばいいのだ。

 だいたい、なんで日記なんてもの書いてるのだ? 最初は簡単に日次更新が可能な方法と思ったからなんだよな。でもぜんぜん日次更新なんてしてない。

 この間、感じたことで、日記っていやだなぁ・・・と思ったこと。書くことは発語するよりも定着しやすいということ。適当に書いたつもりでも、書くことに対して責任を強いられてるような脅迫を感じる。過去に書いたことによって、以降の展開が制限されるような感じになる。


「今まで書いたものは全て迷いだ。死んだら焼き捨ててくれ」

 昭和8年、宮澤賢治が死に際に弟の清六に語ったと記憶している。自費出版以外の作品がほとんど生前公開されることがなかった賢治にとって、この遺言は正直だったような気がする。意に反して、多くの作品が世にでることになるのだが、なにがどう迷いであったのか、わかるような気もする。書くことは、それほど自分の意志や考えを表現できるものではないのだ。そーいうことだ。多くのヒトは、うまく正直にすっきりと書けたな、なんてことはほとんどないだろう。逆にうまく正直にすっきりと書けたってことになれば、これが結構快感なのも事実で、これと似た快感が世の表現者の辛いことばっかの作業に忍耐を与えてるんだろうと思う。

 だから、表現するやつってのはやっぱりちょっと病気じゃないとできないね。だけど、わが国の最近の風潮はその手の病気持ちになれと言わんばかりの雰囲気。

「座してただ死にゆくのみ」

 なんてのはダメだ。なんてことになりつつあるんだと思う。無言のまま死ぬ。結構それもカッコいいと思うけど、自立だなんだ言ってるとそんなことは許されないので、やっぱりみんなちょっと病気になって、会議でもなんでも表現してね。てな感じだな。

 慣れてないヒトには辛い時代だ・・・自分としては片っ端から受けてたとうって気概はあるので、やっぱり日記は続けてみる。


 まだ、まだ若いやつらにゃ負けへんで!

                                 2000/02/02

変化と焦燥

#イチゴ(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 なんか、色々と混沌としてるよな。

 結構な部分が根こそぎ変化してるってのは、なんとなく理解できても、さて何をすればいいのか? 結局、大資本さまとか、ちょっとおかしい不感症のリスクラバーなカリスマさまが、おとなしくなんないと具体的になにをすればいいのかってのが見えないような気もする。

 テレビなんかで、変化を前面に押し出した番組を見せられるとなんとなく焦燥感を感じさせられるもんだが、どんなもんでしょ? 状況によって主軸を180度転換させても恥ずかしいとも思わないような人種の言うことを、賢そうだからという理由だけで飲み込んでも今までろくなことなかったな。

 とはいっても、我々商人というものは、その焦燥感を利用して商売しているということもあるので、なんとも言えない。商人(アキンド)と発語しただけで、合法サギ師みないな人物をイメージしてしまうのは、そういう面があるからだろう。しかし、私(たち?)の誇りというか、なんというか頭のいいやつとはちがうぜ!っていう部分は、商売するときに正義を前面に押し出すことはないよ、そんなことをするやつは外道だ。とどことなく感じている。慢性した敵のはっきりしないような不安をどこぞに誘導して、これが正義でございます。あいつが悪人でございますなんて、アホなことはしない。したとしても商売である以上意識してないとできないので、そういう時はたぶん、手鎖覚悟の言動。無意識にオピニオンリーダー気取ってウソばっか量産してる輩とは違うのだというところが、自分で自分をカッコいいなぁと思えて悦にいってる(これもどうだかと思うが)。

 だから、金持ちのボンボン育ちで、子供の頃からお勉強できて、苦労や精神的破滅なんかろくに経験しなかったようなやつが、真面目な顔で「政治は愛です」なんてバカ言ってると、鳥肌たってしまう。こいつがサギ師ならまだいいのだが、表情からも行動からもどうも、真実を貫こうと思ってるような感じだからたちが悪い。人間がわかってないやつが、どんな理念をもってたとしても、無効な言説を繰り返すでくのぼうにしかなれないので、どうか、職を辞して欲しい。この前、たぶんこの点に気づいた御仁が職を辞そうとしたのだろうが、需要の圧力に耐えかねて復帰してますな。彼はおそらくお勉強ができただけでなくて、どこか苦労人なところがあるのだろうと推察する。だから、とっとと辞めてしまえばよかったんだ。自分の嗅覚を信じてたほうがうまくいくって。たぶんいつものパターンで1年くらいかけて、みせかけの整合性で転向をしかけてくるのだろうが、はたして今度もうまくいくのかな?

 無思考幽霊なヒトはそんなことも見抜けないだろうなぁ。見抜けないなら感じて欲しい。

 しかたないな。無機質な正義に洗脳されることを学生時代にインプットされてるヒトの多い国なので、そういう需要はなかなかなくなんないよ。


 なんの話だっけ? そう焦燥感ね。

 もうメチャクチャにドラスチックな転換をするんだろう。ってのは誰もが考えてることだけどね。それはもうここまでくれば否定するほうが難しいでしょ。そりゃ貧乏になりたくないとか、これを期に大金持ちになりたいって思ってるヒトにとっては、ものすごいプレッシャーだよね。「乗り遅れると奴隷になる」くらいのプレッシャーはなんとなく感じてるのかもしれない。だけど、変化ったってさ。大資本さまとリスクラバーさまあたりが、スタンダードの取り合いしてるだけでしょ? これが定まってから動いたっていいじゃない。ちょっと勉強だけしてさ。勉強は安くてもできるから。落ち着こうよ。

 大変革ったって、脳味噌でいえば大脳皮質のごくごく一部がちょっと変わるかなくらいの変化にしかなんないよ。100年経っても食う物食って、出す物出すなんてのはあんまり変化しないからね。大丈夫だって。

 そういえば、こういう時代を5年くらい前に予見してた、数少ないヒト。色々あったらしくて今はテレビにもあんまり出てこなくなった高城剛さんが言ってたなぁ。

「もしね、タクシーがね空飛ぶような時代になってね。そういう時代がやって来たとしてもね、タクシーの運転手さんが背中に敷いているジャラジャラみたいなものは変わらないと思うんだよ」

(いつもどおり記憶にたよってるだけなので引用は正確でないと思うけど・・・)

 深いな。こういう天才が大衆需要の中で磨滅して行くってのは、どうなんでしょ? まぁ、高城さん自身も焦燥感にやられたようなヒトだからしょーがないといえばしょーがないんだろうけど、オレはもったいないと思うな。

 とにかく、ジャラジャラみたいなものはなくならないってことに関しては、オレもそう思う。だから焦ることはないんだよ。

 もちろん、無思考幽霊なヒトは論外ね。いつも論外なんだけど、だいたい言ってる意味わかんないもんな、そういうヒト。でも大丈夫! 君らも心臓と肛門の位置が急に変わったりすることはないので、似非正義と似非悪人をヘコヘコ分別して燃えないゴミにして騒いでなさい!

                                 2000/02/03

なぜか体調悪いが気分はいいぞ

#赤だし味噌汁(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 風邪が流行ってますか? なんか、風邪っぽいけど、患者にならなければ、病気にもならいというわけわからん気合いで無視ですな。とはいっても、他人にこの状況を転移したくないので、孤独に瞑想の今日一日。つまらん。風邪をうつしてはならんというのではないよ。あくまでも、もしかしたら体調悪そうな姿を見たヒトが気が滅入っては申し訳ないと、自重して、姿を隠しながらコソコソ、ゴキブリのような生活。

 熱ですか? 昼間ちょっとだけ、みなぎる野望が熱エネルギーに転化せしめたのか、外気が気持ちいいという刹那がございましたが、わたしごときのクソ野望が長続きすることもなくすぐさま消滅。

 今は、ちょっとタバコの味がいつもと違うなぁーくらいの体調ですので、寝て起きれば、問題ないのは必定。なんだ、結局風邪なんてひいてなかったなということにあいなります。


 明日は立春。19日は雨水。3月に入って、5日啓蟄、20日春分。これから景気のいい節気がつづきますな。それ考えるだけで、気が晴れるというもんだ。


 万事、天赦日、天赦日、ホレホレ。ねよ・・・。

                                 2000/02/04

傑作はどこからくるのか?

#プチダノンヨーグルト(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 もう大昔のことになるが、芥川龍之介の『歯車』を読んで、説明できないような感動を覚えた。息が詰まるような感覚と、変に晴れ晴れしたような気持ちが同時に襲ってきたのを記憶している。その後、ゴーギャンの『私たちはどこから来たのか、私たちは何か、私たちはどこに行くのか』という長ったらしいタイトルの絵を図書館の画集の中からみつけたときも、同じ感覚に襲われた。

 そして、成人してからのことになるが村上春樹の『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』という小説を読んだ後も同じ感覚だった。

 もちろん、この感覚は主観には違いないのでみんなにわかるような説明は不能といえば不能なんだろうけど、今は同じようなものが体内を貫通したとしても、ぜんぜん違った感覚になるのじゃないかという気がする。

 その部分は大人になることによって、越えてしまったんじゃないかという感じだ。これを、感覚が鈍化したと言い換えてもいいんだろうけど、べつにそれを苦々しく思ったりする気もない。
 だから、実はこの類の体験は、ほとんどのヒトがあるのだけれども、すでに恥部の中に入れてしまいたいような体験として、本来は秘すべきものなのかもしれない。


 でも、ときどき思い出すあのときの感覚というのはなんだったろう? 狭いところに閉じこめられながら悟るという変わった体験のように感じた。今はストーリーも、レイアウトも何も思い出せないが、その息苦しいような開放感といった変な感覚だけが記憶に残ってる。

 もしかしたら3作の共通点は作者本人にとっては駄作であり、作者の迷いがそのまま反映されたものだったんじゃないだろうか? そういう感覚が生の感覚となって読者や鑑賞者という私に伝わったのかもしれない。そう思えば、なんとなく理解できるような気がする。ようするに表現するということはその作者の主体において、それをなんらかの形で開放するようなものだろうから、同じような季節をむかえている人間にとっては、どんなものでも傑作になりうるということなのかもしれない。
 とすれば、ヴィトゲンシュタインが推理小説を異様に好きだったということは、はたしてどういう意味をもつのだろうか?

                                2000/02/05

セーフ犬

#生麩の煮物(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

「なんなんだよ? お前は、何者だ?」

 随分前になるが、確か浅草橋から田原町に向かう途中、国際通りか江戸通り沿いに寝そべってた犬。

 その日、浅草橋の問屋街をプラプラと散歩して、かっぱ橋のいきつけの店に生麩(なまふ)を求めに行く途中だった。

 ほどなく、変な格好して、ボケたカオした犬を発見。

 いかにも、

「どう? おもしろい? おもしろいでしょ?」

 と言わんばかりの表情。犬々しいその媚びを売るような態度を苦々しく思って、

「おもろないんじゃ! ボケ!」

 と応えたものの、あんまり変な格好なので、思わずシャッターをきった。飼い主は見あたらなかった。

 あれから、しばらく経って何度か近所を通ったが、この犬には再会できてない。今度会えたら、なぜ、その格好なのか詳しく身の上を聞いてみたいのだが・・・

 たのむよ。もう一回お前の「セーフ!」を見せてくれよ。

路上にたたずむ審判犬(ただし、セーフしかできない)

                                2000/02/06

大相撲がいかさまだって?

#ゴーヤチャンプル(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 大相撲がいかさまテンコモリという内部告発があったみたいやね。たしか、前もあったな。

 ところで、大相撲って、スポーツなの? 演劇なの? ってくらい、その知識には疎い。だから、いかさまだって聞いたところで、それが問題なのかってのがよくわからない。いかさまだって、主張してる元力士は、間違いなくスポーツと認識してるのだろう。ようするに彼は現役時代に金もらって負けてたよ。本気でやればもしかしたら、勝てるかもしれない取り組みを金で売ったよと主張したいらしい。

 だから、おそらく日本人よりもスポーツと認識している可能性の高い(と思ってる)外国人記者の前で告発してるに違いない。つまり裏を返せば、多くの日本人の心の底には私のような「スポーツなの? 演劇なの?」って部分があるということになる。いい加減な状況をただすために、元力士は外圧を借りたいわけだ。

 相撲協会側の反応は、ウソばっか言ってるじゃねぇ! 謝罪しろ! ということらしい。

 これが、またよくわからない。協会は、現代文化における清廉なるスポーツという狭義の認識で真っ向から否定しているのか? それとも、演劇として観劇者に対するマナーとして否定してるのか? 

 どちらともとれる。

 法的な問題として立件できるのかどうかは別にして(証拠は私自身ですというレベルで立件されることはまずないと思うが)、寿司屋の値段と相撲の内部はよくわからない。よくわからないから、オレは両方とも嫌いだ。だいたい階級が上になるのに(関脇→大関→横綱)システマティックにはっきりとしたものがない。取り組み自体もとっとと、トーナメント制にして欲しいと思ってる。

 つまり、そうなると味がなくなるからなんだろうな。起源はもっと古いらしいが、今の大相撲のテイストは出身地を必ず披露することからみても、江戸時代の大名相撲を踏襲してるものに違いないので、その味を残すという前提の上に狭義の清廉なスポーツが現代の使命という脅迫で乗りかかってる姿になってるような気がする。

 だったら、元々間違いじゃないか。いかさまとかそういうことで間違いってことじゃない。

 ようするに、日本人のお家芸。論理的に相いれないものを、ごちゃごちゃにしてバランス感覚だけで成立させてしまう。魔法だな、こりゃ。

 いかさまかぁー。つまり演出者の意図だな、言い替えれば。

 今回告発を起こした元力士の清廉なるスポーツの主張ってのは、全くもって単純なガキの主張みたいで好きになれないが、演出者の意図のない大相撲というものが、どういう映像を見せてくれるのかってのは、興味あるな。とりあえず、今までのが、いかさまだってんなら、いかさまなしってのもやって欲しい。それみてから、どっちがいいかオレは決めるよ。

 それと、告発したオヤジは、言い切って勝負するって以上、もらった現金くらい返せよ。返さないのにそこまで言って何をしたいのか全くわからんよ。頭悪いのか? それとも天然の卑怯者か? でないと大相撲を改善したいなんて意図をぜんぜんくみとれないよ。それとも、なんか裏があるのかなぁ? まぁ、そうかな・・・

                                2000/02/07

春よ来い! とっとと来い!

#綿菓子(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 夕方。

 お茶の水駅を降りて、外堀通りへ湯島方面に向かって歩く。桜と銀杏の枝のスキマから、日立製作所本社ビルが見える。夏ほど盛んではないがうっすらとした夕日が白いビルに映る。

 不覚にもキレイだなと思ってしまった。こんなありきたりの景色をキレイだななんて思ってしまうのは、気力が充実してない証拠だな。たぶん。

 暦の上では春になっちまったが、まだまだ、今は冬の気分。憂鬱な憂鬱な冬モードな気力。それは、もう慣れっこなので、長者は賢く折り合いをつけてみせる。だってあと多くても7・80回ガマンすればいいことでしょ。なんてことないな冬なんて、冬なんて、冬なんて、冬なんてぇぇぇええ。

 クソ! 冬の野郎!! オレと勝負しろ!

 とっとと降りてきやがれ!


 どこから? しらん!

                                2000/02/08

登録商標

#肉うどん(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 先日、佐川急便の新人バイト氏が荷物を運んできた。ご本人、初仕事のせいかかなりドキドキものだったらしく、インターフォンをとった人間に向かって、

「宅急便になりまーす!」

 と言ったそうだ。ふむ。

 佐川急便内でも、とうとう「宅急便」という言葉は普通名詞になってきたらしい。たしかに一般の私たちが郵便小包以外の小包を「宅急便」という言葉で表すのは問題ないと思うが、競合会社が使うのはちょっと変な気分にさせられてしまう。

 そう「宅急便」という言葉は、ヤマト運輸株式会社の登録商標です。

 だから『魔女の宅急便』は、ヤマト運輸が制作会社(スポンサー?)のひとつになっている。あれ? あの映画って原作があったんじゃなかったけ・・・原作を見たヤマト運輸がクロネコ(ジジ)をシンボルマークにしたのか? それとも、ヤマト運輸を制作会社の一社とするにあたって、原作が書かれたのか? それとも原作なんてなくて、とにかくヤマト運輸が制作会社になるにあたって、そういうことになったのか? どうでもいいな。

 とにかく、登録商標が普通名詞化してるってのは結構あるな。会社としては、一般化するってのは冥利に尽きるってことになるけど、公の新聞とかテレビとかが使用すると使用される場面によってはクレームの対象になるらしい。だから、メディアのヒトはかなり注意してるんだろう。

「実はですね。○○○○はウチの登録商標なんですよ」

 なんてことを、訪問先の会社のヒトにご教授されることがままある。それを聞いたときは、エッ!そんなものが登録商標なんて知らなかったよ、ビックリしたぜ、まったく。ってことになる。同時にその会社の歴史に対する尊敬というか、ちょっとだけ「いままで、なめてました。へへ〜っ」な気分にさせられてしまうから不思議だ。

 登録商標は、商標の使用に対する独占権を得るために行われるに違いないが、その商標が普通名詞と区別つかなくなってくるということは、その商品が一時代を築いたということだろう。私たちがその商標を多用した結果だとすればそういうことになる。

・ウォークマン(SONY) 携帯カセットテープレコーダー。
・キャタピラー(米:キャタピラー社) ブルドーザーや戦車の足まわりのやつ=クローラー(一般)。
・マジックインキ(内田洋行) フェルトペン(一般) たしか、この商標は買ったとか言ってたような気がする。間違ってたらごめんなさい。アメリカプロモーションの話おもしろかったです。
・ポリバケツ(積水化学工業) ポリエチレンを加工して作ったバケツ。
・セロテープ(ニチバン) セロファンで作った粘着テープ。実は、この製品がモノとモノを貼り付ける目的じゃなくて、塗装工程での目張り用として開発されたというのは有名だな。アロンアルファが外科用の皮膚を貼り付ける接着剤だったというのと似てる。
・ソノシート(朝日ソノプレス社、現:朝日ソノラマ) 昔懐かしいペラペラのレコード。絵本とレコードを組み合わせて、一発当てるぞ!の勢いで朝日新聞社が会社つくったんやってね。ソノシートが注目されないようになって、写真関連の書籍。今はマンガ本ばっかになってますな。

 なんぼでもあるな。面白いから、こんどヒマがあったらゆっくり調べてみよ。

                                2000/02/09

起業の原理的イメージは?

#ポテトサラダ(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 今日は水曜日。今週はあと2日で終わりだと思ったら、金曜日はお休みやんね。そうか、週休二日の人々は、明日で今週は終わりだ。エライぞ建国記念日! よくぞ金曜日で待ち伏せしてくれていた。いや待ち伏せではありませんな。じゃー、囮(おとり)捜査? ちがう! 尾行だ・・・ってだんだん遠くなっていくので、迷宮入りだ。ちっ、最近の警察ってば迷宮入りばっかじゃねぇか? 昔の刑事モノドラマのオープニングで「わが国の検挙率、世界第一位」っていうフレーズがあったな。勘違いかな? いや確かにあった。今は、いったい第何位なんだ? まぁーいいか。いや、よくない。よくないけど、とにかく頑張ってくれ。

 建国記念日。

 オレが若いころは、空論の対象の日だったな。とくに学校の教師なんかが、ブツブツ言っていた。わけわからん鼻たらした小学生に向かって、なんかボソボソいいたい日だった。

 そのボソボソを思い出すと、要は「紀元節」だと。だめじゃん。軍国主義じゃん。という日だった。紀元節は初代天皇「神武」さんの即位日、2月11日はその日だと。敗戦と同時にこの祭日はスゴスゴと引っ込められて「そろそろいいよね?」という気分で「建国記念日」と名前を変えてでてきたのだと・・・反対派の言い分は、神武は実在だかなんだかよくわかんないし、2月11日が即位日だなんて根拠ないじゃん。しかも天皇制の再高揚に寄与しちゃうから、ダメ! まぁ、天長節(明治天皇誕生日)を残すために、わざわざその日に新憲法を発布して「文化の日」にしちゃきたないわ! と双璧の教師等ご批判の日。もちろんテレビやら新聞やらもそんなノリだったな。

 どうでもいいやんね。そんな、雲の上でケンカなんかするなよ。そんなレベルでケンカばっかするから、バカなことばっか言うことになるんやで。「学級崩壊片腹痛し」だな。オレ的にはそういう意見。そんなことばっか言ってると自分の実態としての職業的能力が低いのに、なんかごまかされて高いところに登った気持ちになるんだろう? 正直に言ってみな。その揺り戻しが「学級崩壊」だと思えば、そりゃそうだろ。その部分の意味がどんどん希薄になってきてるので、バカがとうとう露呈したのじゃないの? オレが尊敬してた先生なんか野球がうまかった先生だけやで、当然だ。

 それぞれの種族には〈歴史〉がと絶えてしまう時間がある。どうしてもそれ以前の共同社会の構成については知ることができない。わが種族では現在のところ、千数百年の時間の外にでることができない。これは歴史的な時間として、あまりに真新しすぎるといっていい。〈歴史〉のと絶える時間は、生活史が不明な時間とは即座にはむすびつかない。ひとつには生活史の断片は、発掘された器物や遺跡の断片から部分的には復元できるからである。もうひとつは、生活史の上層にあったはずの観念の共同性は、考古学的な資料の発見では、単純に復元できないからである。この部分で〈歴史〉は時間的にと絶えてしまう。これを復元する可能性は〈神話〉にもとめられる。わたしたちが原理的に正当に〈神話〉をあつかう方法をもっていれば、である。〈神話〉の時間性はどこでも〈歴史〉がと絶える時間よりずっと遠くをさしてるといっていい。
 
吉本隆明『共同幻想論』−「罪責論」冒頭より引用−

 ふむ。なるほど、そうだ。戦前も戦後もイデオロギーの対象として玩具のよう扱われた神話ってのものがね。原理的に正当に〈神話〉をあつかってるかっていえば、ぜんぜんあつかってないってことだな。今は化石的な二元論になりつつある、右翼も左翼もぜんぜん賢く、流体としての歴史ってのをつかまえることなんかできるわけないってことだ。ただ、いたずらに強固に固定して本質をどんどん見失ってる。つまり雲の上での空疎なケンカしかできないってことだ。当世流行りの、戦争肯定論や日本人胸を張れ論も、この域からでてるものはないと言い切っていいんじゃないかと思う。とにかく好きに論をもてあそびたければ、もてあそべばいいけど、本来個人に帰するような問題をごまかして公の理念まで強引にもっていこうというクソ論理だけはやめてほしいな。そんなことしてるから、能力不足を下らない理論で補完するバカ教師のような人種があとを絶たない。

 ガンダムのヒトはこう言っている。

 知ってのとおり古代史は今や大ブームだ。
 藤の木や吉野ヶ里の遺跡には見物客が群をなす。ちょっとした発掘記事が新聞の大見出しになる。
 こういう傾きは以前からあった。それを他人事のように見て自分は、なんと日本人は古代学インテリばかりであることよなどと思っていた。しかし、ほんの少しの勉強で事情がへんだということに気づいた。古代、少なくとも四・五世紀以前の日本史はおそろしいほど判らないことだらけだ。書物も研究も、知的関心も山のようにあるのに何一つ確かになっていない。全体が巨大な迷路なのだ。これはひどいとさえ思った。
 ほんの半世紀以前、日本は大戦争をやらかした。何百万の日本人が死に、その十数倍の他国人を殺した。その蛮行の背景に古代史に発した選民思想があった。思えば日本の古代史ほど罪深い歴史は世界に例がない。その古代史が実は全然謎なのだ。これは重大な問題だと思わざるをえない。
 自分達はいわゆる戦後教育を受けた。むろん歴史もまたしかりだ。その歴史・日本史の中で古代の箇所は最も味気ない部分だ。はっきりいって固有名詞がない。縄文・弥生の二土器の記述があり、稲作渡来の事があり、四世紀半ば、突如として巨大古墳ができたと語られる。あとは欄外の扱いで魏志倭人伝と卑弥呼の事が小さく見えるくらいだ。そう極論していい。これはむろん皇国史観への反動だ。
 かつて日本史は神話の熟読から始まった。九九のように二百有余の皇統を空んじた。大戦をはさんでのあまりの変わりようだ。その狭間に、たぶん真実の日本古代史は深く沈み込んでいる。古代史はすさまじい両極端に引き裂かれてるといってもいい。不幸な、そして危険なほど不毛な状況ではないのか。
 
徳間描き下ろしコミック叢書 安彦良和『ナムジ −大國主− 古事記巻之一』筆者あとがきより引用

 まぁ、自分の反省で言えば、こういう言葉に勇気づけられても『古事記』を読み解いてみせるか!な気合いが持続しないってことだな。『古事記』を原理的に正当に読み解くことができれば、未来が急速に軽くなって、気分爽快、商売繁盛間違いなしなんだけどな。

 わからない? へへっ、それは企業秘密。ヒトの気分は流体だってことやね。未来が見えるようになってヒトの気分が動き出せば、その時は商人の時代。今がそうか・・・いや、まだまだだね。 

                                2000/02/10

景気回復な晩飯

#けんちんうどん(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 昨日も言ったように、今日は金曜日気分の木曜日。自宅でウダウダ晩飯食うのもめんどくさいので、近所のファミレスまで足を運んだ。ファミレスといってもここは、かなりマイナーのチェーン店で、週末の夜といっても客で満杯になることはまずない。

 だいたい外で飯を食う場所を決めるとき、オレの場合は「客が少ない」というのが優先順位の筆頭にくる。不味くてもいい。ヒトが少ないところがいいということになる。飯食うときくらいは、まわりにヒトがいないほうが落ち着く。だから、逆の視点から見れば、東京の不味い店というのはかなりの量、頭にインプットされているということになる。「東京の不味い店MAP」、ぴあかどっかに企画あげたら、とおるな・・・とおるかい!

 ということで、いっしょに飯を食いに行くヤツは、オレに選択権をもたせないほうがいい。もたせれば、必ず客の少ない安くて不味い店がロックオンされるに決まっている。

 ところが、週末の夜に行っても、広いフロアに2・3組しか客が見あたらなかったそのファミレスが、満員なんです。メニュー変更なし。ヒトを呼びそうな客引き企画なし。なんなんだよ!

「ここはオレの店だぞ!〈BY カン陀多な気分(蜘蛛の糸より)〉 」

 来るなら、オレに断ってから来てほしい。満員になる原因がまったくもって不明だ。

 オレは密かに、景気回復宣言したね。

 ええ。飯はそこでしかたなく食いました。食いながら、オレの店がビル・ゲイツの手にわたったんじゃないかとドキドキしたぜ(ウソ)。

                                2000/02/11

なくならないよ

#バナナチップ(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 将来希望する自分の姿と自分の現在の実力があまりにかけ離れてると焦りますよね。具体的な姿で焦るってことなら、まだいいけど、なんか茫洋とした視界の中で意識が遠くなってしまいませんか? 具体的に困ったってことでなくて、なんとなく胸をかきむしられるような不安。ありますよね? これって、想像力が先行してるってことなんでしょうか?

 将来希望する自分の姿 > 自分の現在の実力×到達希望時間

 この不等な関係が、その手の不安や焦りを呼ぶってことなら、現実的な思考に変換してなんとか落ち着くこともできるはずだ。方法は3つあるね。

1、将来希望する自分の姿を下降させる(ゆるめる)。
2、自分の現在の実力を上昇されるように努力する。
3、到達希望時間を延長する。

 しかし、そうはっきりした希望であれば、この手の考え方で乗り切れるけど、いやできるだけこんなふうにきっぱりとやっていきたいってことなんだけど、どうもそうはいかないような気がする。

 だから時には、この手の希望そのものを無効(無欲化)にしてしまうような、宗教的解決思考や絶対到達不能なバカでかいものをぶっちゃげて「将来の夢」みたいな口当たりのいい言葉で夢想に転化して自分をごまかしたりもするよね。

 それとは、逆の発想で「一日一日を大事に生きる」なんて、現代人に好まれるような善人ぶった、廃人的「相田みつお」流お言葉で逃避なんてのもあるね。あんな言葉で癒される人種ってのは、ほとんど自分で思考する能力もってないか、よっぽどドツボにはまって他人との会話ができなくなってるような状態なんだろう。芸人が何人かマネしてるみたいだけど、見苦しいからやめなよ。それって芸が枯渇して、本来なら政治家にでもなろうってところを「オレって人望ないからね」って構造にのってるでしょ? よくやるよね。まぁ食うためなら、8割は許してもいいかな。でも、もっとよく考えてね。身の程知らずは見てるほうも恥ずかしいから。

 とにかく、将来の不安やら焦りってのは、どうやってもなくなりそうにないな。なくならないなら、なんとかイロイロやったり、考えたりしながら折り合いつけていくしかないんだろうと思う。これは、たぶん絶対的結論をもとめてはいけないものの類。結論を求めようとすると、確実に他者への攻撃になって現れてしまうので、取扱い注意だね。殺人犯や誘拐拉致監禁犯になりたくなければね。

                                2000/02/13

季節報道「バレンタイン」

#温泉たまご(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 明日はバレンタインデーだな。外国事情やら、チョコレート女から男へってのは日本独特の風習やら、それが結構最近のことだってことやら、菓子メーカーのプロモーションから始まったってことを毎年、毎年テレビなんかに聞かされて、ちょっとうるさいなぁな気分。まぁバレンタインデーチョコレート合戦なんてのは、学生の本分みたいなところがあるから、毎年やんないとなんでしょ。学生は毎年更新されるからね。ニュースなんかも「兼六園の雪吊り」や「二月堂のお水とり」と同じような扱い。それで時節をからませるね・・・

「不況を反映して、例年より・・・」「景気回復の兆しがここにも・・・」

 さて、今年はどっちのトーンが濃くなるんでしょうか?

 しかし、歳とるとだれにもらえるかなぁ?とか、意外なところから、ポロッてもらえないかなぁ的妄想はなくなっちゃいますな。さびしい限りだ。

 この時期スーパーなんかに行くと、チョコレートがワゴンにてんこ盛りって風景を目にするでしょ。困ったことに、嫌いじゃないんだよなぁ。いやチョコレートがね、好きなんです。典型的、下戸の甘党だから・・・ワゴンに積んであるチョコレートをもってレジに向かいたい気持ちはあるんだけど、レジのお姉ちゃんに・・・

「このオッサン、もらえないもんだから、自分で買って見栄張ろうってんだな、気色わるー」

 って思われるんじゃないかと思って自重してしまいますな。よく考えてみると、この自重も見栄だな。なんだ、買っても買わなくても見栄っ張りやん。じゃー買えばよかった・・・

                                2000/02/14

もうすぐ春だからね

#トースト練乳がけ(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 そろそろ、春の気配。気温はまだまだだけど、匂いや音が春に近づいてきた。メジロの群が柿の木の枯れ枝に群れてる。ただし、これは冬でも見られる光景。テレビのアンテナにとまる一羽のシジュウカラ。狂ったように啼き叫ぶ(鳥にもサカリがあるのだろうか?)。その声を聞いてノラ猫、覆面の推定1歳がハンター本能全開で、シャドーボクシングを始める。

「アンテナだよ、アンテナ。そんなとこで暴れてもつかまるわけないぞ、バカ!」

 ヒトの忠告聞く気もなく、延々とシミュレーション中・・・ケモノめ! 


 デジカメはシャッターきれるの遅いんだから暴れるな!

                                2000/02/15

体感温度

#讃岐和三宝糖(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 狭き等圧線に圧倒されつつ、国道20号を東へ。酔っぱらいでもないのに、千鳥足の行軍。

 しかして、仄かなる疑問符・・・体感温度が風速によって変化(へんげ)するとはなんぞ? そはどのように算出されるものぞ? 帰宅後ネット探索開始! ってエンジン一本稼働させて、大量の文書に嫌悪至極。

 とにもかくにも、湿度と風速。夏は湿度に重きをおき、冬は風速という一般人の思慮浅し。

 気になる日記の内容を発見・・・

「本日、気温9度。体感温度にして4度くらい(云々)」

 お前って歩く温度計か? なにを根拠に曰(のたまわ)くか不明。どうにもこうにも、ネット内日記というものは好き勝手な言葉が土砂崩れのごとき乱舞せり。

「余もそのヒトリぞ」と口号せり。

 我が姿に噴飯し、道化なる己に幸いを感ず。

 よきこと、よきこと。

 

質問:不快指数及び感覚温度に関する定義、計算値などをお教えください。

答え:体感温度

<ミスナール(Missenard,A.)の体感温度>
TE=t-0.4(t-10)(1-H/100)
これは風速0のときで、風速vのときは、
TE=37-(37-t)/(0.68-0.0014H+1/A)-0.29t(1-H/100)
:A=1.76+1.4*v**(0.75)
となる。ただし、H:湿度、t:気温。

<リンケ(Linke,F.)の体感温度>
TE=t-v**(0.5+12*J
J:地表面のうける放射量(cal・cm-2min-1)

<バンサン(Vincent,I.)の体感温度>
TE=26.5+0.3t-12v+0.2x
x:黒球温度の値
#上記の他にもいろいろあり、人によってその定義はかなり異なるようです。

運輸省 気象庁 日本気象学会(MSJ)ホームページより引用


 インターネット時代もお役所仕事は、やっぱりお役所仕事・・・