2000/06/01

プレイリードッグ

#豚の角煮(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 あー見たね。見たともさ!

 何を?って、この時期見たと言ったら「プレイリードッグ」に決まってるじゃないですか。決まってないですか? そーですか。

 京王線「代田橋」駅から甲州街道に出て、ガソリンスタンドの向かいのツツジの植え込みの近くをチョロチョロしている小動物発見。大きなネズミかと思いきや動物園でしか見たことのない「プレイリードッグ」さまだったね。ペットショップかどこからかの脱走兵であろうか? 脱走兵であればかこまってやらねばと、追いかけて終戦を告げて説得しようとするが捕まえるどころではない。逃げ足速く、予想外の動きで車道に飛び出さないかと思ってヒヤヒヤしたね。どうにもなりませんわ。

 それでは、のら犬(ネズミ?リス?)としてたくましく生きて行くのだぞ。生きてたらまた会おう!

                                  2000/06/02

小さい正夢

#大根の浅漬け(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 寝不足で気が立ってるので、今日は一日、あまりしゃべりたくないと思った。こんな状態でしゃべり出すと、何しゃべってもケンカごしになってしまうからな。寝不足で人間関係にキズつけるのもアホらしいのじゃ。

 目がショボショボしてるのでサングラスかけて行こうかと迷って、一回かけてみたがやめた。たぶん、注意力散漫状態なので、どこかに忘れてくるんじゃないかと制御的心理が働いたのでしょう。

 今日のスローガン! 「無口にシブク」

 と思ったら・・・独り言も含めて、玄関を一歩でたらずっとしゃべってましたな。ケンカごしにならなかったのはやっぱり大人ということでよろしい。だけど打ち合わせ中にキレのいい発言ができなかったので、相手にあまりいい印象はもたれなかったでしょう、すまん。

 一件目の打ち合わせ終了して、二件目に向かって移動。鶴見から京浜東北線に乗って田端に向かってる途中で車内睡眠。遅刻する夢を見たら、やっぱり遅刻した。待ち合わせ場所に先方がまだ来てないので助かった。

                                  2000/06/03

十手買ってどうするのさ

#鯨の大和煮(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 飯田橋にボロ市がたっていたので、ラムラ地下のしょうゆ亭でちゃーしゅーめん食ってから、ひととおりションベン(ひやかし)。

 時計屋の1950年代のスイスウォッチ、グラス交換オーバーホール済みが姿がいい。書体の感じと大きさが、欲望をくすぐる。しかし78,000円は高すぎる。もちろん未購入。

 その他、十手、鮫の下顎、サーチライト、髑髏(レプリカ)、長火鉢などに好奇心ゆらゆらさせて結局なにも買わずに退散。開きかかった土手のアジサイを鑑賞しながら市ヶ谷から下北沢に向かう。

 雑貨屋でカバン購入して、徒歩にて帰宅。

                                  2000/06/04

過睡眠頭痛

#夕張メロン(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 ボーっとしてても、チャキチャキしてても、標準的な時間ってのは経っていくのでつまらんな。

 ヒトが現在獲得できるスピード下では、時間は平等に与えられてるので、あとは個人の資質とそれによる感性の問題だってことだろう。乱暴に言えば幼いときに極端な貧乏を経験してるとか、破滅的なコンプレックスと戦わないと生きていけないとかいう資質のヒトは静止するか、チャキチャキ動いてないとたまらないのかもしれない。

 しかし、本来的にあまり問題なく生育したる者の本性というものは「ダラダラ」や「ボー」が性向にしっとり馴染んでいると思ったり、思わなかったり。

 もちろん「ダラダラ」や「ボー」が社会的に立派な人間と認められるという可能性はほとんどない訳で、立派な人間という賞賛の裏には集団的無意識のスケープゴートというものがあるかもしれんな。

「ダラダラ」や「ボー」のヒトが一日の三分の一を労働としているならば、嫌いな仕事をしてるというのは、かなり不幸なことかもしれない。まあ、しかし「ダラダラ」や「ボー」のヒトはうまくバランスとって、その鬱屈をどこかで吐き出すのが巧みなヒトであろうから、そんなに心配はいらないかもしれない。

「ダラダラ」や「ボー」として、食うことに困ることなく一生を終えられる世界が怠惰で破滅的世界だって言い分には、賛成できない。成熟した姿でほんとの意味で立派に自立して生きるってことは、逆に「ダラダラ」や「ボー」ではないか?

 いや、きっとそうに違いない。

 つまりね、偉そうにこんなこと言ってるのは、今日は「ダラダラ」「ボー」っとしてなんもしなかったという報告なのですけどね。

                                  2000/06/05

梅雨前

#マンゴウプリン(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 なんだか息継ぎするのも煩わしいくらいに、忙しいなあと思ったら、いつの間にかボーナス商戦に突入しているのだな。締切ギリギリの製品が投げ込まれるように襲ってくるので、その度にスケジュール計算のやり直し。効率悪いなあ。

 とりあえず、できるだけ労働時間を延長させて乗り切ってみせるが、今年は夏バテしないようにしないとな。

 あと一ヶ月もすれば、年末商品が動き出すのだな。季節感ぜんぜんねぇや。

 一年短いはずだ。

                                  2000/06/06

銭湯

#韓国冷麺(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 机上の仕事ぶっ続けで、一日2万歩を歩いてないと足の筋肉がワラワラと泣き叫ぶので、多少でもなぐさめるつもりで、久々に散歩を兼ねて1.5キロほど離れた銭湯に行く。この銭湯は大げさなアルカリイオン水のプラントを普請して、水という水をアルカリにしてる銭湯。ちょっと前までは客が飲用にするためにペットボトルで水を持って帰ってたな。石鹸で身体を洗うと、自宅の風呂であれば脂が抜けてキュッキュッとするのに、この銭湯だと洗い終わったあとヌラヌラとして気持ち悪い。

 健康にいいってより、ヌラヌラしてるのが決定的にいやだな。と思ってたら、最近では飲用はアルカリ(ph9.5程度)、肌には酸性(ph5.5程度)がいいということになっている。つまりヌラヌラは気持ち悪いだけでなく肌にもよくないということらしい。なんだ、またかアホらしい。

 この手の健康的情報に関しては、こんなのバッカなので、ほとんど自分の快楽的感性に頼ったほうがよいのではないかとさえ思われる。どうせ、三流雑誌受け売りでしたり顔のオヤジが飲み屋で健康談議するネタでしかないのだからな。食用健康情報を面白がってるのは結構若い連中もいて、テレビ番組なんかで取り上げれば翌日のスーパーの売り上げに影響をおよぼすなんてのを聞いたことがあるが、これなんかも情報を整理して羅列して、冷静に思考すれば「なんでも食えばよろしい」ということになるに決まってる。それくらいこの手の情報はインチキで大量であるので、健康であるということはこの手の情報に惑わされない精神であると言い換えてもよいと思う。

 情報が正しいというのは常に相対的で、絶対的座標軸は「思考や判断する深度」と言い換えなければならない時代になったのだと思う。絶対を絶対的に否定すると単純な宗教嫌悪な現在の風潮にしっくりときて多数の無思考者の支持を得られるだろう。だが一方で、もの思うことの苦手な人は受け売りの紋切り型をさらけ出してアキアキとされているのだな。だから、思考の形として深さ、方法の巧みさというものがやっぱりあって、それが妄想的絶対の喪失からくる空虚からヒトの心を救う唯一の方法であるということになるんじゃないですか。

 そういうことでなければ「ヒトを殺してなぜ悪い?」などという迷路に堕ち込んでいる連中をどうやって救うのさ。

 絶対が滅んだという前提で自分で創作したらどうだ? 他人から安っぽい万能薬を与えられて万が一健康になれても、なんもおもろないで。

                                  2000/06/07

日米箸戦争勃発

#砂肝の炒め物(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 初台の公園のベンチで缶ジュースを友にちょっと休憩。

 向かいのベンチで二人のYシャツネクタイヤンキー男(若いアメリカ人)らしき者がランチの最中。コンビニのザルソバ食ってやんの。何しゃべってるかわからんが、勝手に吹き出しつけて遊んだ。

男A「日本通でんなぁ」

男B「日本通でんねん」

男A「日本の夏はザルソバでんなぁ」

男B「ザルソバでんねん」

 しかし、確かに箸の持ち方もさまになっていて、礼儀正しいスタンダードタイプ。これより下手くそな犬食い日本人はいくらでもいるもんな。と感心しながら、その動作に見入ってると、コンビニザルソバは強敵だったね。ちょいとソバの隅をつまんで持ち上げると、器の中のソバは全部持ち上がってしまうね。そりゃ、ゆでたての麺を冷水にくぐらせてザルに盛ったものとは違うわい。水分不足のソバはゴワゴワのパーマネント状態。何度も何度も狙いを変えて、つまみ出そうとしているが、どこをつかんでも全部持ち上がる。

(さばくんだよ! 中心から外側に向けて箸を開くの! そいで、麺をほどくのじゃ)

 と心の中で応援的テレパシーを送ってみたが、やっぱりなかなかうまくいかない。しまいに、麺を箸でちぎり始めた。やっぱヤンキー(仮定)って強引だわ。

 箸の持ち方を正しくすれば、外から内側の動き、つまり、つまむという運動はすぐ修得できるけども、内側から外への動きに力を込めたり、微妙にさばいたりするのは結構修行が必要だということだな。

 あいつらにできないことをオレは出来る・・・少し変な優越感を感じた。

 今度の戦争は箸でするぞ! ってヤンキーってば戦いになれば、断然に勤勉になりそうなので負けるかもね。やっぱやめた。

                                  2000/06/08

それで、いったいどっちなの?

#コーンフレーク(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 オケラだ〜って、ミミズだ〜って、みんな、みんな生きているんだ。友達なんだ〜♪

 いや、生きてるのは可能な限り最大限認めるが、友達じゃないな。

 つまり訃報を聞いて悲しくなれるのは、かなり親しかった人間や動物に限るわけで、飼っていた犬の死と小渕前首相の死のどちらが悲しい? ってことになると飼っていた犬になるに決まってる。

 半蔵門から霞ヶ関に向かって歩いていると必然と国会議事堂や中央官庁の前を通る訳で今日はいつもと違ってるってのがどうしても目に入る。喪服の中年のオジサンがやたら目立ったり、警官が信号機の箱を空けて手動で信号操作してたりしてるわけだ。交通機動隊が手動でこの辺の信号操作してるってことは、国賓の車をノーストップで通すためだね。あとはお祭りの御神輿なんかが交叉点を占拠するときに同じような光景を見ることがあるが、国会議事堂前に御神輿が入るなんてことは聞いた事がない。つまり今日は、小渕前首相の合同葬ということらしい。中央官庁は日の丸半旗や黒いビロビロをぶら下げてて、なんだかものものしいのだけれど、その割には平常の生活になんら影響のないのが不思議な感じだ。

 中央官庁にしても、半旗を揚げたり揚げてなかったりで、なんだかバラバラで、いい加減なんだな。

 

 国会議事堂−半旗

 衆議院議員会館−黒ビロビロ

 文部省−黒ビロビロ

 郵政省−半旗と黒ビロビロ

 総理府−なんもしとらん

 大蔵省−なんもしとらん

 

 総理府がなんもしとらんって・・・なんか・・・おや? 冷たいのね。

 霞ヶ関には商船三井本社があって、本社ビル前の掲揚台には、午後5時まで、社旗とグループ旗(三越とおんなじやつね、井桁に漢数字の三の入ったやつ)と日の丸が掲揚されてるんだが、そこは半旗にすらしてない。民間会社だからね、関係ないね。ってことだろう。

 言行不一致は国民性であるから、今更なんとも思わないが、先の昭和天皇ご逝去あらされるときは、中央官庁やら商店街やらも半旗揚げちゃって、マスコミもそれなりにあるいは過剰に芝居じみた悲しみを流布して、どうしちゃったんだ? ニッポンチャチャチャってぐらい、すごいことになってたのよ。ほんとに。あれは12年前。遊興施設はことごとく喪に服しちゃって閉館さ。こりゃこの国の連中はなんやかんや言って天皇陛下を神あつかいしてるのだね。と思ってたら、森デブデブ総理大臣が神の国発言すると「なんや! デブイテまうど!!」的な攻撃で・・・この国ってば、ほんとにほんとに、なんやわからんぞ・・・と、あまり国民的自覚のとぼしいオジサンは思ってしまうわけだ。

 天皇を中心とする神の国でないと、言ってるのならさ、バランス感覚としてオブチーの合同葬はもっともっとど派手に、どばーっ! とやらねばなるまい。やれよ、どばーっ!っと。

 だから、お前らの言ってることもやってることも、口ばっかで信用ならんのだ。

 オレはやっぱり身近な人間が死なない限り、不謹慎だと言われようが悲しくはならんだろ。生活者だからな。

 関係あるかどうかよくわからん話だけど、仕事上で私的言語として「天皇作戦」というのを使うことがあるね。ある組織とある組織がコンソーシアム(共同事業)なんかやるときに、決裁権を参加者以外のヒトが持ってるということにするというやつだ。つまりお芝居みたいなものだけれども、重要な人間が他にいてそのヒトの意向を入れないと決済できないという物語をつくるわけだ。利害の判断がその場で決定できない場合に時間稼ぎできたり、折衝相手から「我々はそれでいいと思うのだけれども、かのヒトはダメと言うでしょう」などと言ったりして険悪なムードにならずに少しでも有利な条件を導き出そうとする心理的作戦ですな。

 みんな使ってるでしょ?・・・決裁権持ってるくせに「上司が・・・」とか言ってじらせるやつ。責任回避的にも使われる機能的な裏ワザですよ。

 こういうことの好きな国民がね。口じゃイヤって言ってるくせに身体が好きって言うの。な二重構造。分かりにくかろう! 分かりにくいところがうーん極楽極楽?

 ほんとの、ほんとの本音っていつになったら言うようになるのさ!

                                  2000/06/09

関節痛からの脱出

#ハマチの腹身の刺身(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 ここ一週間、記憶違いでなければ二週間、休日以外の昼食というものを御法度にしている。下戸であるがゆえに、一日中口を開けば食い物のことばかり言っていた中年風情がなにゆえ昼飯を食わないことになっているかといえば、無敗アキンドス、いや、未勝利、不名誉、どんくさい、アホンダラ、バカじゃないの? のギネスブックに掲載されてしまいそうなフットサルチームに参加しているからである。なにゆえフットサルチームに参加すると、昼食をピンポイント断食せねばならぬかといえば、試合が終わるたんびに、筋肉痛であれば目をつぶろう、すり傷なんか勲章だもんね。しかし、関節が痛むのよ。関節が痛むと一週間ちょっと不具合な身体になるわけで、浅はかな判断として関節が痛むというのは体重がひどい、病気、重量オーバーということになり、それでは落とそう、落としてみせよう。またやんの? そう、落とすぜ体重をイェイ♪ ということになったわけだ。そいで、目標を4キロを一ヶ月で滅殺、撲滅、蒸発させる計算をしたらば、これはかなりの加速で落とさねばならぬということになり、食物をコントロールするのは不本意であるが、この際いたしかたあるまいということにあいなりましてソウロウ。

 そいで、どう食物に手をつけるかと考えれば、毎回の食物を少しづつ削るということになれば、三食すべてがストレスの対象になって、深夜冷蔵庫界隈を徘徊するのは間違いあるまい。じゃ、どれか一食抜きましょうねという、巷間言われてるような手法なんぞ信用してないので、とりあえず昼飯はどうせ外食、食いたい時に食えない混雑昼食地獄な東京で丁度よい攻撃対象ではないかということになった。朝飯なんか抜いたら死んじゃうからな。

 幼きみぎり、それはおそらく6歳か7歳の頃の記憶。三食きっちり、食材バッチリ、最低30品目? そんなの楽勝、楽勝の家庭科のお手本のような食生活を実践する家庭に育ったボクは、何かの拍子に、夕食の時間が2時間くらいずれるような日が年に一回くらいあると「死ぬ! 死ぬ! 死んだらおかあちゃんのせいじゃけんね!」と本気で泣き叫んでいたのであり、ほんとに、ほんと絶対死ぬと思ってたバカガキだったわけで、習慣というものは、このようにヒトというものを洗脳してしまうのだなあ、と思ったり、思わなかったり。

 つまり、飯を抜くというのは、潜在意識の中の死のイメージを喚起して、ちょっとドキドキしたりするのだけども、過体重であれば、保存食を体内に蓄えているのであり、しばらくはそれを食って生きようね。と言い聞かせて、一週間、記憶違いでなければ二週間、昼飯抜いてがんばって、3キログラムの痩身に成功したのでした。だから、あと1キログラムを蒸発させれば、この儀は終了、めでたい。

                                  2000/06/10

さぁ選びなさい

#粉ふきいも(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 どうでもいいこと、あるいはどっちでもいいことってのがある。しかし、質疑したる者に「どうでもいいよ」とか「どっちでもいいよ」などと応答したりするのはあきらかに礼を失しているのであり、さらに、優柔不断な者と烙印を押されるのは不本意ながら、必定なのである。

 しかし、優柔不断とは違って、あきらかに「どうでもよい」または「どっちでもよい」ということは存在しているのであって、それを上手く伝達する方法はないかしらん? などと考えていた。

 本来興味がないことを尋ねられても、どうにも応えようがないのだけれども、日本男児的自意識が少しでも働いたならば、無理矢理に己に虚偽してでもハッキリと応答してしまおうという虚栄が働いて、寸暇なくバシバシ発語してしまうもので困った。嗚呼、自己嫌悪。

「椎名林檎と浜崎あゆみ。どっちが好き?」

 と問われれば、10−23乗秒の暇もなく「椎名林檎!」と応えられるのだが・・・

 たとえば、

「森進一派? 五木ひろし派?」と問われでもしたら大変だ。応えなど準備しておる訳もなし、二人のどの部分を比較して派閥に参画するかなど想いを巡らしてるうちに、インターネットで検索し、ほどなく明治座公演や新宿コマ公演チケットなどを予約してしまいそうで怖い。めんどくさいので無意識に「どっちでもいいよ」などと発語してしえば、じゃがいもの会だか南京豆の会だかわからぬ会に拉致・運搬され、寄付を心理的重圧でもって強要されるのである。今日から君は森進一グループの一員である。と壮年オバちゃんたちに胴上げされ「ビバ! ビバ! ハレルヤ! ハレルヤ!」となってしまったらどうしよ・・・。

 しかし、それでも、この世に存在する選択肢のほとんどは「どうでもよい」ことであって、こだわりに値する選択なんぞは稀の中にもうひとつ稀を作ってしまうくらい少ない。だからヒトは自分を対象化できぬまま選択を続ける。これは、もう毎日毎日をバクチ的に生活を継続しているのと同義である。とするならば、この世のヒトのほとんど、もしくは全部が生活に絶対的満足なんかしておらず「まぁこんなもんで、満足と言って構わないかな?」的、諦念もしくは消極または受動として生命を育んでおるに違いない。

 これは、生きるための芸であって、この芸ができない人間は一秒たりとも生を持続できるものではあるまいと断言できる。

 断言したついでに言わせてもらえば、ほとんどの選択が迷妄の結果とすれば、人格なんぞの確定はいかようにも表現できるのであって、占いの修辞に人格のほうから迎えに行く。または迎えに行きたがるという欲求は、心優しく理解してやってもよい。

「今日の黒ヒョウ当たってる! 当たってる!」

                                  2000/06/11

ワタシはカビになりたい

#いんげんのゴマ和え(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 雨でしょ。梅雨でしょ。日曜日でしょ? ダラダラでしょ! まあ、ときどき大したことない仕事なんぞもこなして。この世は平和。

 と思ってたら、明日必要な書類を作ってないのに気づく。どうしましょ? 起きてから、ずっとダラダラしてたのでエンジンに火がともらないよねぇ。明日でいいか・・・明日じゃ遅いんだよね。じゃーやんなきゃでしょ。やるの?

 つべこべ言わずにとっととやれよ!

 んじゃ〜また明日。

                                  2000/06/12

暖房再起動

#包米湯(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 頭痛だ、イェイ!

 ナロンエース君には、ぜひがんばっていただきたい。なんたってエースだからね。しかもただのエースじゃなくてナロンなエースなのだから、ナロン分よけいにがんばってもらわないといかん!

 ついこの前まで、ヘラクレスオオカブトムシがタバで襲ってきそうな暑さだったのに、寒いぞ、クショー! 梅雨寒というやつですな。いわゆるひとつの、アジサイとカタツムリの共謀による列島寒冷化計画。その計画にヒトリ立ちはだかって、エアコンドライモードより暖房モードに切り替えて、設定温度はマキシマム。どうだ、まいったか! なに言ってるかって? だから、頭いてーんだよー。

                                  2000/06/13

湿度で修行

#鳥皮と鰹節の和え物(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 両手を腰にあて、生乾きのパンツをにらみつけ、恨みは天に。我が意趣、天に届け!

 と、大げさに言っても「晴れてねっ。」などと可愛く言っても、雨は止まないのだな。

 もうよい! 一年中毎日毎日雨降ってればよいではないか。毎日降ればそれは日常、だれもうとましくは思わないので安心だろーよ。ってあいかわらず誰に向かって突っ込んでるんだ? 相方のジェーンにだな、ジェーンって誰だ? しるかよ。可愛い魔女ジニーの親戚らしい・・・。誰もしらんな。ダーリンが広告代理店の従業員じゃなくて、宇宙飛行士やってる方、サマンサより露出が激しくて、良い感じですぜ、だんな。っていつまで続くんだ、あぁうっとおしい。

 今日はやたらと電話がかかってくると思ったら、雨だとヒトの動きが悪くなって、外出したくないので、半分暇つぶし、めんどくさいから電話で済ましちゃいましょ的な判断でかけてくるのだろうな。

 逆にいつも煩わしいくらいかかってくる、訪販アポインター系勧誘電話が一件しかなかった。在宅・在社率が上昇して、大漁であそばされるのでしょうか?

 しかし、雨の中ヨチヨチ歩いても、イライラが募るばかりで、視界は狭くなるし、道には迷いますでしょ。こんな天気に道なんか迷ったら、イライラがウツウツに変化して、もう「今日はやめた!」となりますな。そいで、今日やっとかないと、こういう季節だから明日もこんなだったらどうする? みたいなマイナス妄想をバネにまたヨチヨチするじゃないですか。そうすっと、なんかすごい精神修養かなんかしてる気になって、目的と手段がひっくり返る。

「あそこの電柱までガンバルぞ!」とかね。

 暗い。

                                  2000/06/14

海は広いよ、たぶんね

#クジラのたつた揚げ(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 夕方、久々に晴れ間が見えて、気分よくコンビニにタバコなんぞ買いに行ったら、ご近所の庭で夏椿(ナツツバキ)・夾竹桃(キョウチクトウ)が開花宣言してたね。夏の花ですな。

 夏かぁー。ナツ、ナツ、ナツ、ナツ、ナツ、ツナ、ツナ、ツナ、ツナ。ツナで思い出したけど(思い出すなよ)、日本マグロカツオ協会って九段かどっかにあったな。その協会の入ってるビルって、たしか〈ツナビル〉。ベタベタ。梅雨だからねって、これもベタベタ・・・。

 あークジラ食いてー!(関係ないけどね)。メルヴィルの『白鯨(モービーディック)』の中に、クジラステーキ、ムシャムシャ喰うシーンがあったな。昔のことだから、よく覚えてないけど、たしかにあったよ。昔は米人も結構喰らってたのかな? それとも、捕鯨船の船員だけかしらん? そもそも、100年前の米人にとってクジラは灯明用の油の原料らしいから、喰っちゃいないのかもな、喰えよ! タイムマシンでクジラ料理持っていって、貴婦人なんかに喰わせちゃえば歴史は変わるな。

 米人のことだから、カリブ海大工事で封鎖しちゃって、そこ生け簀にして、クジラの養殖さ。クジラ養殖しすぎちゃって、日本はアメリカ産のクジラを買わないからけしからん! 買えよ、安くてうまいクジラ!ってどの道、日本の捕鯨漁師さんは困ってしまうのだな。でも、安く堂々と喰えるのと喰えないじゃ大違いだ。

 やってみるか。クジラの養殖・・・東京湾、まるごと生け簀にしてみれば、霞ヶ浦のバス釣り小僧なんか「みみっちくてやってられっか!」ってことになるでしょ。銛(モリ)持って、東京湾にクジラ突きに行くね。みかんやイチゴ狩りと同じ原理で、金払ってクジラ一頭を家に持ってかえるでしょ、とーぜん。喰うね、死ぬほど喰う。朝から晩まで、一年中。そういった豪快な家族に乾杯! なんで? しらないよ、へへっ。

                                  2000/06/15

独歩、無独酌

#鴨せいろ(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 梅雨の晴れ間。空気もほどよく気持ちよく、小躍りしながら外出。レッツ新宿! レッツ神保町! とご陽気にニマニマしながら軽くスキップもでるし、ボソボソとひとり呟くひとりごとも(あたりまえだな)、少しボリュームアップしてる。往来の娘に「ちょっとお茶でも?」と声かけたくなる気分を自重しながら歩く。歩くね、とことん歩く。

 こんなに気分がよいのに、やってることといったらいつもの、仕事・・・。なんか悲愴な感じ。そのギャップが、自問を誘う。「お前はどこへ行くのか、どこへ行きたいのか?」的ちゅうぶらりんな状態に引き裂かれて、孤独感がフツフツ沸き上がってくる。

 いかん、このままでは情緒不安定になってしまう。酒を飲まねば、酒、酒、酒、酒、酒! なんてね・・・。そんな風にはならないのさ。酒飲めないからな。そういう心理的不安定なところが出てくれば、回避する、力ずくで平常にもどせるという技を処世術として身につけてる。下戸にも少しくらい、いいことがなくてはなるまい。

 しかし、こういう日に人気(ひとけ)のないソバ屋かなんかで、ビール独酌し、静かに静かに、盛りソバなんぞを喰らうなんてことしてみたいもんだな。できねー、オレにはできねー。ビールをコップ一杯あおったところで、便所に行って、盛りソバ、モリモリ吐いてしまいますな。

 本日、盛り場にヒト集う刻に帰宅。月よし。紫陽花(アジサイ)よし。平穏この上なし。

                                  2000/06/16

懐古して思うこと

#椎茸の肉詰め(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 若い頃は懐古趣味なんぞという、みみっちい精神の動きというものを嫌悪してたものだが、この歳になると盛んに懐古し、快活になったり、恥ずかしがったり、激高したりしている。つまり懐かしんでいるのだけどね。実にみみっちい。

 不思議なことに今から10年前といえば、自分の歴史のなかではほとんど、現代と変わらぬという感覚であるのに、小学校を卒業する頃の過去10年というのは、縄文時代から現代までに相当するほどの激動と変化を感じさせるものだ。おそらく自分の本分・才能に関するパターンを習熟したる後は、すべてそのパターンにより、だいたいこういう風になれば次にこうなるに違いないといった予測が成り立つのであって、それが変化に関する感受性を鈍らせているのかもしれない。

 10代半ばなんて頃は、ほとんど自分の可能性を無限に根拠なく信じており、謙譲の精神もしくは先手の言い訳でもって「つまらぬ人間であるから、大成はせぬ」であろう諦念を周囲に告白しながらも、心中では逆に「自分というものはかなりそこそこ大人物になるやもしれぬ」などという妄想にとりつかれていたような気がする。

 時流であろうか、内部と外部の空気の差であろうか、両極端に引き裂かれた「現実から類推する将来」と「妄想から来る将来」の渓谷を埋めるものは、誰か自分を認める者が現れて掬い上げてくれるのではないか? というさらなる妄想でしかなかったような気がする。

 もちろん、こんな妄想が現実化するわけもないので、心千々に乱れ、現実の世界で暴れたり、嫉んだり、厭世したりして同類の仲間の中では毎夜、悪事の合間に革命・転覆・クーデター・放浪計画などの妄想遊びが盛んで、そういうできもしない想像力で慰め合っていたのであったな。これは、男子に特有のものかも知れないと思うのはここ最近の17歳のヒト達の暴走といわれる行為に対して、女子の暴走が稀にしか風聞として伝わってこないからだ。

 また、こうも思う。あの頃の自分が同類の仲間を見つけ、下らぬ妄想の中に慰めあったりすることができなかったらと考えれば、発狂は免れなかったかも知れぬと。

 最終的には、そのような自堕落な群衆を嫌悪し遠ざけ、個人へと分割してしまうことになるのであるが、あの両端に引き裂かれた時期、一見無意味に集い、暴れ、慰め合うというのは儀礼・習俗的にも各国に残滓(ざんし)しているのであり、制度として認めようのない必然ではないかと思ってしまう。

 かの事件の総括を、個人として分析し、親に還元し、果たして制度の不備を徹底するような行為におよぶことになれば、直感としてますます事を悪化させる誤った処方箋になるのではないかと思えてならぬ。

 飛躍して述べるとすれば「盗聴法」なぞという制度徹底がもつ「事を管理し、よからぬ者どもの暴挙から市民を守る」なんぞという分かりやすり論理は、家畜管理の論理でしかなく、事をもっと悪くすると断言してもいい。しかし「盗聴法」の本質は、私たちと関係ない上部レベルでの戦闘準備であるということには違いないので、この流れは易々と止められはしない。だが、しかし恫喝するだけしといて、本来の目的と違う使い方をされることの明らかなものであるならば、大きな嫌悪を常に表明しておくのは大事であり、この手の分かりやすい論理は日常生活に絶対持ち込むものではない。

                                  2000/06/17

とびなさるの?

#ゆかりせんべい(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 また、雨の野郎だな。もう慣れちゃったから、痛くも痒くもないね、フン。これ以上降っても時間の無駄だよ。こりゃ絶対負け惜しみなどではないのだからね、とっとと尻尾まいて逃げるがよいぞ。

 などと言って「太陽と北風」じゃあるまいし、天気を擬人化しても詮ないな。

 そういうわけで、雨降りのたびに家でゴロゴロしていたんでは、それはそれでいいのだけれど、人間として腐ってしまうというような脅迫もうっすらありーので、半分不本意、半分気晴らしみたいに傘持って外出。

 新宿南口に出ると、雨だし皇太后ご逝去の影響でJRAの馬券売場は閉まってるはずなのに、いつもの人出。ちっ計算はずれちまったな。雨だよ、馬券売ってないのよ、家でゴロゴロしてなさいよ。なんて若人は聞かないね。わんさかわんさか群れてブラブラしてるし、濡れたくないもんだから駅構内を歩きやがって、いつもの土曜日より多くの人出に感じる。

 まぁそれでもせっかく出てきたのだから、夏準備するつもりで、オシュマンズ行ってTシャツ二着買って、東急ハンズに移動。別に強く欲しいというものはなかったけれど、黄色い「なわとび」だけ買ってご帰宅。

 なぜに「なわとび」を求めたかといえば、フフフ・・・この夏の謀略。「なわとび」腰に巻いて街を闊歩するというものを流行らせたる! ファンションリーダーとしはそういうことだ。って誰がファッションリーダーやねん!

 ただ、懐かしかっただけ、ガハハ。

                                  2000/06/19

鬼刑事の日常

#まぐろのやまかけ(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 五反田駅で降りて階段に向かっていた。階段の近くのホームに胸パット(俗:チチパット)が落ちていた・・・? とてつもないものが落ちているものですな。ふむ。

 不思議な光景に眼球はしばらくロックオンされ、鋭い頭脳は犯罪のニオイを察知する。ただちにプロファイリング開始! チャチャチャチャチャ(脳味噌検索音)。わからねー、わかるわけがない。だいたい、胸パットなんて、どうやってどういう風に装着されて、あそこに納まっているのか知らんもん。だから、なにがどうなったら、あそこから落下するかなんて想像もつかん(ワタシ、犯人わかんないです)。プロファイリングなんかしてごめんなさい。ワタシがバカでした。泣きながら小走りで階段を降りる。

 最近ときどき見かけるガラガラ声で「オレ、ゼッテーコクルからな!」などと大声でしゃべっている、飯をラーメンドンブリで喰いそうな、ぶっきらぼう文体の豪快女子高生が、

「チチパット痒いぞ、殺すぞコラ!」

 と叫びながら、胸に手をつっこみ、むしりとってホームに捨てたのかしらん? などとフワフワ考えながら、大都会を歩くプロファイラーひとり。だから、プロファイリングするな!

 某出版社に行ったら「吉 幾三」が例の東北なまりで、

「よすです。よすいくぞうです」

 と大きな声で受付をしている最中だった。静かなビルに声がこだまする。

「知ってるよ! みんな知ってるちゅーねん」とツッコミを入れたい衝動をおさえつつ、脳味噌は不思議な胸パットでいっぱいだったのだな。

 実は鬼刑事(アダナはスッポン)。

                                  2000/06/20

独占欲求

#ウドの皮のきんぴら(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 下高井戸駅のホームにウンチ座りして、小さな枕くらいあるロールケーキをバナナみたいにして喰ってるニーチャンがいた。今日の昼飯なのだね。

 豪快かつ豪華であるな。うらやましい・・・うらやましくない!

 そういえば、親から離れて暮らすようになって、すぐやったことといえば、シュークリーム10個買って、イッキ食いしたことだな。独立したてのヒトってみんなやるのかな? そういう好物独り占め作戦。その当時ボクは度重なる独り占め作戦の遂行により、胃と胆嚢を壊しましたよ。

 つまり、アホなのだけどね。良い子はホドホドに。

                                  2000/06/22

未勝利からの脱出(その1)=ユニフォーム=

#なすみそ(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 「アツはナツいねぇ」

 とオヤジは言った。去年も言った。一昨年も言った。だから、当然今年も絶対どこかで言うね。オヤジの一年は短く、記憶はウスバカゲロウの命のように儚(はかな)い。だから、毎年同じようなことを同じような時期に言ってしまうのだな。許してやってくれ! オヤジとはもちろんボクのことなのだけどね。

 一年の長期におよぶアキンドス(フットサルチーム)ユニフォーム会議にとうとうピリオドが打たれたね。発足して一年以上経って正式ユニフォームができたのであったな。各々が勝手な好みをあげつらって、未勝利街道まっしぐらのアホンダラチームにユニフォームなどとご立派なものがいるのかしらん? という疑心に幾度も引き戻され、精神的統一が不可能と思われた烏合の衆を見事束ねきったS山氏には海よりも深く感謝申し上げたい。

 うちのYはさっそく、通勤用の普段着としてご利用あそばされている(ガキであるな)。Yにとっては、それほどの慶事であったのであろう。嗚呼、祝祭、祝祭。

 祝祭は初勝利のあとね。