2000/08/01

タップンタップン

#そら豆スープ(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 あまりの暑さに気絶していたら、いつの間にか8月であるのだな。

 もう飲めませんってくらい水分とり過ぎて、腹が「タップンタップン」鳴っているのに、ノドの乾きはおさまらない。タイムラグというものなのかね? 気持ち悪い。

 新橋駅前の噴水のフチにハトが群れていた。噴水の落下がもたらすシブキを身体に浴びて「あ〜きもちえぇ」とおっしゃってるのですな。いっそのこと飛び込めばいいのにな。そういえば、ハトの砂浴びというのは見たことあるが、水浴びは見たことない。

 ユリカモメ(有明に向かう電車)の乗り場近くにある自動販売機のカン捨てボックスも「タップンタップン」だったな。

                                  2000/08/02

避暑希望

#オクラの酢の物(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

「さぁ出陣!」と着替えをしていたら、くつ下の左右の色が微妙に違うのを発見した。青色と紺と青の間の色。似ているけども違うペアであるのだな。元々紺色が好きなので、その周辺の色ばかりに偏りがちな衣服風景。よって、このような間違いが起こる。いつもなら、ちゃんと揃えて履き直すのであろうけれども、暑くてめんどくさいのでどうでもよい。

 そう、暑いといろんな微細な判断を必要とするものが、どうでもよいことに変化してしまうな。

 今日は神宮の花火大会で、夕方過ぎると電車の中に浴衣のおねぇさんたちがチラホラ。いつもなら「かわいいなぁ」的小さな感動で、少しくウキウキするのだけれども、暑いので「どうでもいい」気分。しかも色の黒い娘が着る原色系の柄の浴衣が眼にはいると、暑苦しくて絶望的な気分になる。

 いや、いつもなら可愛いのよ・・・でも、今日だけは勘弁して。

 電車の中でサングラスをはずさなかったのは、こういう理由なのだな(ウソ)。

                                  2000/08/03

冷たい沸点

#冷たい茶碗蒸し(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 しかし、まぁ暑い暑い、死ぬ死ぬなんて言っても、夏なんかほんと死ぬまでにあと100回も来ないだろうから勘弁してやるしかないな。

 そう考えて正月でもないのに一年を振り返って仮想される残り時間に代入してみるとそう大したこともできそうにない。つまらん。

 イジイジジメジメ考えてる時間が空しい。

「仕事なんてしてていいのか?」

 なんて根元的な疑問を持ったり持たなかったり。いいのよ、どうせ大したことにはなりはしないのだからな・・・どんな偶然と訳ワカランことが起こってもアメリカ大統領以上の者にはならんだろ。どんな想像力をもってしても、宇宙の大魔王やドラクエのボスキャラくらいにしかなれんだろ。

 微細な障害を次から次へと処理しているうちに、あっという間にゴールだろうな。

「そんなことでいいのか!」

 なんて暑苦しいこと言うやつが目の前に現れたら「お前病気やねん」と捨てゼリフ残して逃げてしまおう。

 すべてはヒマつぶしとして真面目に行為するのが上品の定義。

                                  2000/08/04

虫注意報

#キンキの煮付け(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 今年の蝉(セミ)は、ちとうるさい。

 それは、もちろん去年の蝉と今年の蝉の個体差(声量の)がもたらすものではなくて、個体数の変化ということなのであろうな。単純に言うと今年は蝉の成虫がたくさんおらっしゃるということなのか。

 さまざまな要因もあろうが、経験的な感触からすると、暑い夏の年は「虫」樣の当たり年。わけわからん虫とかがウヨウヨ地面のたくりまわったり、ワンワン飛びまわったりで、虫嫌いの娘たちの呼吸や心臓を止めたりするのだな(心臓はとまりません)。

 今年の夏は蚊に何度刺されるかわからんな・・・と思っていたのだが、意外に一度も刺されない。もしかしたら、蚊を捕食するような蜻蛉(トンボ)あたりが大量発生してるのか? まぁなんにせよ「今年は虫がたくさん出るよ注意報」を個人的に発令しておくので、つつがなく夏を過ごされますよう。

 そう、この「つつがなく」の語源は正に虫様の災害に遭遇しないということなのであるな。「つつ・が・なく」ではなくて「つつが・なく」が正しい。この「が」は助詞ではなくて名詞の一部。「つつが」というのは、一度は聞いたことがあるだろう「ツツガ虫」のこと。つまりダニの幼虫ですな。吸血される虫樣でダニの幼虫であるから昆虫ではなく、どちらかというとカニ様のお仲間。

 つまり「つつがなく過ごす」の語源はツツガ虫の被害に会わなくて無事に過ごしましたなぁ、ということらしい。

 はい、お勉強になりましたな。息災、息災。

                                  2000/08/08

寸暇、睡魔、筋肉痛

#焼き鳥のレバー(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 ねむい。

 たぶんこの気候では、全国的にねむいのではないか? いや、そうであってほしい。そうでないと、これは老いの兆候かもしれんと辛気くさいこと考えてしまうからな。

 電車なんかに乗って面白くもない本なんか読んでいると、うっかり寝てる今日この頃。油断してるとちょっと信じられない体位で寝てるので背筋が強烈にこっていたり、首筋が痛んでいたりと大変だ。

 しかし、眠いからと言って休みの日なんかに睡魔にまかせて寝続けると、今度は例のあのイヤな頭痛さまの到来だ。欲望のままに睡眠とることは身体にいいような感じがするけど実は違うのだな、きっと。身体の疲れと神経の疲れが常に同量ではないということなんだろうか? そんな単純な話ではあるまい。

 今日は8日? 8月8日、末広がりで目出度いのか。フジテレビの日か、ちがうのか? なんかやったのかな。

                                  2000/08/10

大吉金魚

#カキ氷「レモン+コンデンスミルク」(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 最近のネットライフ的目標は、ほぼ日金魚おみくじで「大吉」をとることです。

 いや、ヒマじゃないのよ。ヒマだからって訳じゃないんだってば!

(「凶」はなんぼでもとりました。金魚100匹ほど追加お願いします。)

                                  2000/08/15

敗戦の日

#豆かん(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 我ながら、真面目なタイトルでビックリするね。

 なぜ、こんなこと書こうなんて思った理由はハッキリしてる。

 毎年、毎年この日に先の戦争についての総括的議論が行われて、電波がそれを垂れ流し、同じような役割の人間の言説が比率的に変化はしているんだろうけれども、表層のいわゆる議会を絶対とするシステムでの「我が意見や体験的屈辱や嗜好」を卑見しまくって、ぜんぜん面白くないからだ。

 面白くないというのは、その繰り返しによるもので、古い漫才を毎年毎年聞かされてるのと同じだなぁ、こんなことで戦争なんぞ考えても「戦闘」のもたらすある種の快感が原理的に作用して集団的に昇華してしまうような「猿」集団である生物の根本的な思考になるわけがないのになぁ。と思うからだ。

「痛かった、苦しかった」体験を記号化して、洗脳することで未来へ向け仮想体験として残すことが、戦争の「晴れがましさと苦しさ」「快感と苦痛」という言語上の対立と生理的には接近されているだろう概念を無効にするに有効だとは、どうしても思えない。

 最近はその「晴れがましさ」を強調することによって、内部的仮想を強化しようとする言説が商売として成り立ちやすくなってるのは、事実なんだろうと思う。この事実を歴史の伝播不足による若者の右傾化であると年寄りは思う訳だ。愚かである。

 つまり、面白くない。

 自分の体験的想念を羞恥なく暴露すれば、戦闘への傾向というのは、個人の消滅欲求から来ているのじゃないかと考えている。これは幼年期のキズが無意識に残滓してる人間が思春期にある種の敗北感を味わうことによって生まれるんじゃないかと考えている。

 同種をこれだけ殺傷する傾向にある人間というものを、異常ではなく正常であり、自然のなかに組み込むということは、論理的には可能であろう。しかし、反対に人間のみが異常であり、なんらかの欠陥と折り合いをつけながら増殖しているという考え方もできる。

 ボクは間違いなく後者であると思う。

 自己を消滅させたい欲求が「公=個」の対立「公=公」の対立へと変異するのは、すぐにイメージできるし、「個=個」の対立に向けられれば殺人である。自殺欲求が思春期の男児に圧倒的に無意識的に現れるのであれば、その個が強烈に本能的に自己を保存しようとすれば、個の内部で対立が起こる。個を二者に分かつようになるんじゃないかと思う。そういった人間は究極、他者を殺すことによって、自死願望を昇華する事になると思う。「公=個」の対立が減少し「公=公」の対立が似非論理的に社会で認められるような環境であれば、国家的幻想にそって戦争という乗り物に乗ることはありえる。

 そうすれば、訳がわからない動機不明瞭、猟奇的嗜好の殺人は減少するってのも分かる。

 つまり、両者は同じ線上でバランスをとっている。

 根本的な問題は、アホ漫画家やアホ大学教授が言うように「公」を強化したり、「戦争」をいたずらに嫌悪しない、最終的に国家的幻想を強化することによって、エゴを縮小することができれば、社会を清浄化することができるという言い分は、機能としての考え方として正しくても、科学的援用として間違っている。彼らの言う正しさは、事件の立証論的評価の追求であり、我々にとって重要であると思われる「現在を歴史上のある地点に向かって放射する」という感覚が欠如している。これは、決定的な欠陥と言わざるをえない。「公」が強化されることによって行われるのは、「個」の破壊に決まってる。無意識で自己滅亡願望を持っている人間に、分かりやすい土俵を与えることで、その個人の分かりにくい部分を減少させることができても、根本的な解決にはなりはしない。「公」の強化は「個」を攻撃して、不安定な「個」を増産する。表面的には雄々しくて勇ましいが、生物として極端に弱々しい中性的なオスを作り出すであろう。

 単純な話、とくに幼年期の男児の魂にキズをつけないようにする。とはいっても、生物的に弱々しい人間のオスはすぐキズがついてしまうので、キズのついたオスにちゃんとそれを意識化させるということが重要な気がしてならない。音楽でもスポーツでもそれらを無意識のまま表出させないための機能的行為であるのだろうけども、商業的に機能し始めることによって、だんだんと無効になっていく。祭・宗教も昇華する材料であるのだけれども、これも神格的な部分が科学的に否定されるなどの作用によって、昇華材料としての効果が下がっている。

 伝統で調合したものの機能破壊を科学が行おうとしているのならば、無意識の欲求を科学が意識化させるしかない。伝統の厚みのみで調合された治療は、麻薬的な依存を生み出して、あんまりよくないよというのが、ここまで生きて考えた結論。とりあえず、病理は根本を攻撃せねばならんだろ?

 これだけは、言っておくが、同種が殺し合う「戦闘」なんてものは、生物学的本能からくるものじゃなくて、本能に小さなキズが認められてから起こる、上部現象に違いないのだ。そこに議論の対象をもっていかないと、また、毎年、毎年、つまらない漫才を見せられることになる。

                                  2000/08/19

訃報(郷里より)

#豚ロースカツ(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 近所のマダムがまた事故ってる。3年間で高級外車と国産車を3台乗り換えてるのであるよね? 粗忽者のマダムなのであるな。

 前々回の事故では少しく首を痛めたらしく、入院こそしなかったが、頼むからもう少し気をつけてねと祈ったものだ。今までの感じだと乗り換えてから一週間くらいで、どこかをぶつけてくる。信じられん。

 元々宮城県のヒトらしく、東京の道路事情に慣れてないというのもあるのだろうが、それにしても順応性の足りぬことこの上ない。だいたい、近所の行列ラーメン屋に出かけるときも、自動車で乗り付けるような生活態度であるので、一日の出動回数は5回以上。

 マダムの乗ってる現在のドイツ高級車も買ってから一週間でバンパーが欠損してしまった。心配だなぁ。マダム自体は大金持ちなので、車はなんぼでも乗り換えればよろしいが、事故はあかんやろ。

 まぁ、いつも明るく、バカ笑いのマダムを見ていると人間は不死身なのかもしれんなという気分にさせられて気持ちよいのであるが、見るごとに様相を変える車を見てると「ウッ、ウッ」っと、なにかが胸につっかかる気持ちになる。

 それにしても、人間はなかなかにして死なぬものだなぁと思っていたら、先週郷里より中・高生時代の友人「K」の訃報が入った。

 死に際の様子を詳しく聞くと、旅立つ前夜に父上と晩酌、泥酔、そのまま自室に戻って睡眠。昼になっても、自室より出てこぬ我が子を不審に思い母上が部屋に入ってみたらすでに亡くなっていたそうだ。心臓麻痺であったらしい。

 実に呆気ない。

 昨年、仕事のこともあって、19年振りに帰郷した際(両親が引っ越してるために育ったところに行く機会がなかった)「K」の家を尋ねた。高校生時代の麻雀の負債を清算しそびれたまま、上京してそれっきりになってるのを思い出したからだ。

「K」は仕事で不在であったが、定年を過ぎた父上があまり手入れされてない庭の芝生の上でゴルフクラブを振っておられた。自己紹介をすると父上はなんとなくボクのことを憶えておられて、当時の様子をしばらく回想し始める。ボクは訪問の趣旨を伝え、父上に5千円札を一枚手渡すと、そんな昔のことは時効であるので話だけ伝えておくからと、それを返そうとする。こちらは、帰郷してからそのことばかり思い出していたので、不躾は承知で受け取ってもらわぬと、今後の神経にさわるのだと言い残して、代弁を託してその場を去った。

 それが虫の報せであったのかなあと思ったり、借財を残さずによかったという気持ちになったり、あのまま借財を残したままであれば、もしかしたら「K」は死なずにすんだのかもしれぬと魔法のようなことを、訃報を受けてからしばらく考えた。

 しかし、成人したる「K」はどんな姿であったのであろう。随分と変化していたには違いないが、今となっては想像することすらできない。

「K」に最後に会ったのは、上京して最初の夏休みであったろうか? 上京する前日の夕刻に餞別だと言って、5千円札を一枚ハダカのままで持ってきてくれた。そのときの、無法者(高校生のほとんどがそうであるように)が儀礼に即した行動をとったときに見せる、照れくさそうな顔が思い出されてしかたがない。

 そうか「K」には、この餞別を含めると1万円の借りがあったのだな。当時の彼の才能、天才的な行動や集中力、特に目標を定めてからの成長速度の凄まじさは、この歳になっても他者に類を見ない。

 なにを思い出しても、残念至極だ。

                                  2000/08/24

ん? 熱。

#とりかまめし(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 だるい。

 さぁ、いよいよ毎年恒例の夏バテだなと思ってたら、タバコは不味いし、ノドは痛いし、熱は出るしと、夏風邪だったのだな。

 近所の病院(医院・診療所)に出かけて行ったらば、休診ということ。その病院から一番近い別の病院に行くと・・・またまた、休診。児玉清もビックリだぜ(それは「救心」)。

 なんで、ご近所同士で申し合わせたように休むかね。熱下がんねーぞ! 普通逆だよなぁ。

「お前が休むならウチは開くぜ」

 ってのが、商業的にも社会的欲求・使命から言っても普通の思考だよな。病院なんて社会から離反したような組織に、社会性なんて求めても無駄なのだね。中世のカソリック教会ですか? そんな、大げさなもんではないですな。

 せめて、人気のない病院は、貧乏になって、食うに困るってとこまで仕組みを編成しなおさないとだめなんだろうな。

 まぁ、病人なんていう不景気なツラばっかしてる人間を相手にしてる商売だから、面白くないってのは理解できるんだけどね。なんつーの。今の町医者って大学病院のカチカチインターンみたいなやつばっかになっちゃってさ。こっちも面白くないのは事実だよなぁ。対話がぜんぜんなってないし、癒すっていうのを分かってないよね。学校では教わることじゃないから、無理っていえば無理なんだろうけど。接客って言い換えてもいいけど、そういうのがぜんぜん「バカ」だからさ。話の面白い鍼灸医とか、極論商店街の八百屋のオヤジとかと話したほうが、風邪くらいだったら癒えるよな。

「夏風邪? ネギ食って寝てりゃーいいんだよ!」

「それで、治らなかったら、マスクメロンよこせよ」

「やだね」

 とにかく、変な汗出てきたから寝るよ。

                                  2000/08/26

ウスバカゲロウ

#百合根のおすまし(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 ウスバカゲロウがずっと視界に入ってて邪魔だな。部屋から出てってくんないかなぁ。薄命の象徴に胡座かいて警戒心ないのだな。

「死ぬのよ、すぐ死ぬの。だからイジメられないでしょ? 殺したり追っ払ったりしたら外道よ。殺すの? やってみれば?」

 実にいまいましい。

 幼虫時代は卑怯千万のトラップ野郎だったくせに! 禍々しいアリ地獄のくせに・・・。そんな悪童だったから、薄命なのだよ、フフフ。などと言葉で落胆を誘うようなことを言っても一向に理解しないのだな。できるな、オマエ。

「風呂の湯垢みたいな羽しゃーがって、ぶち殺すぞ!」

 ふつう人間だったら、泣きながら逃げるぞ。そこんところ理解してるのか? などとムシ相手に強がってみても、空しいのだな。

 んじゃ、オレが出ていくよ。バイバイ。

                                  2000/08/30

『性的ヒーリング −其ノ弐−』発売記念

#カツオの心臓(ヘソ)味噌味(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 ワタクシ的には「血豆カレンダー」に一票。

 しかし「血豆カレンダー」は、演者(創作者)の日記という意味では? とすぐにイメージできてしまうのでつまらんかな。「おんぶエクスプレス」はおんぶして疾走する感じで楽しいし「ごきげんペチャパイ」も軽味のある躍動感が伝わってくるのでいいな。

 でもこれって何? 「勝訴ストリップ」のネーミングの残骸であるのかな?

 まあ、あんまり考えて本筋を忘れるのはアホらしいので忘れることにする。

 とにかく祝杯。麦茶でね。