2000/11/02

本日の酔っぱらい

#鮭茶漬け(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 今、たった今。午前3時40分なのだけどね。自作自演系の酔っぱらいにけたたましく起こされた。

 隣接する道路を革底の不規則なタップを響かせながら、大声で歌手は唄うね。

「お侍、ちょんまげ、一本のふんどし〜♪」

 なかなかシュールで時代劇な歌詞なので許す。なんでやねん! いいの、いいの、さっさと二度寝するんだから(生あくび2度3度)。

                                  2000/11/06

商売の原初イメージ

#明太子のおにぎり(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

「18世紀の終わりまで、人間は存在しなかった。わたしたちの思考の考古学がたやすく示すように、人間は、近来の発明である。そして、おそらく、その終焉が近づいている」

とは、ミシェル・フーコーの有名な言葉であるが「人間」が終焉を迎えたら次はなにがくるのさ?

 間違いなく「人間」の変容される概念になるのでしょ。「個人」や「恋愛」を引きずってある意味不健康に収束される方向に働いていたものが、外向きに? はたまた、位相を違えて?

「人間」が供給者の言葉から消費者の言葉になり(つまり、規範を憑依させた言葉から、欲望を美化し誤魔化す言葉に)、その限界(消費による摩耗)は確かに予感として近づいているようにも感じることができる。

 それは、極めて歴史的に必然的に内的要因によってゆっくりと変化していくものなのだろうか? それとも、病気・宇宙人の襲来・天変地異などによって、ドラスチックに変化していくものだろうか?

 商人(あきんど)という仕事を長年やっていくと、消費傾向の変化というのを身近に感じる機会は多い。その場合関係する商材でなければ、いきなり消費傾向(大衆の欲求の方向性)は変化したように見える。関連する商材であれば、一大衆としての自分という内的感受性とほぼ等速に運動するので、極めて必然的にゆっくりと変化してるように感じることができる。要は観測者の位置によるものなのか?

 資本の都合でもって、短絡的に先行待ち伏せ型事業に精出す商人(コムスンなど)がことごとく失敗するというのは、観察位置を外部に固定してるからじゃないのだろうか。彼らの思考はオカルト的に宇宙人が襲来したから、ビジネスはこう変わるという幼稚な論理で知恵がない。資本を提供する方もする方だと思うが、消費傾向はどんなに必需(はたして厳密な必需は残っているのか?)といえども、偶然を積み重ねてできあがった空気の総体であろうから、単純な論理では解けないのじゃないか? 単純な論理で解けるのであれば、ボクはその時点から間違いなく失業者だ。

 商業のツボは、高い位置から全体を把握する視線と水平にとらえられる自分を含めた消費者としての視線を何度も往復しながら(遠視・近視を猛スピードでスイッチしながら)、同時に許容できる気分をコストを意識しながら具現化できるかどうかということなのだからね。つまり、突き詰めれば思ってるほど簡単な仕事じゃないってこと。

 ただし内的変化は需要の変化に間違いなく投影されるので、変化してるときは商業的には楽な時代ということになる。「人間」が終焉を迎えて何かに化けるとしたら、一番最初にそれを感受して理解しやすい形として提供するのは商人のつとめ。今は理解しにくい形としてクリエイターが無駄遣いする時期。保守思想家が急ブレーキをかける時期。アナリストがウソつきまくって扇動する時期。大衆の妄想はすべてを凌駕して落ち着き先を尋ねてキョロキョロしながら、神経症に苦しむ時期。商人はただただ、落ち着き払った嫌みに満ち満ちて観察する時期。

 だけど、多くのヒトは全部を内包してしまってるので刹那の決定も許容できずに判然としない。でも大丈夫。時間がすべて解決してくれるのだからね。次の「人間」の定義を構えて待とう!