2000/12/03

師走におわす

#グジュグジュのラフランス(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 日没が寂しい。

 午後6時を過ぎて、ひとりでネオンの街をウロウロしてると、人ごみが排他的な映像に感じられて、なんとも孤独。寒いしな。

 なんでまた年の終わりの月をこんなに寒い月にしたのだ? 悪いのは吉備真備(きびのまきび)? カエサル? グレゴリウス? 南半球に移住すればよいのだな・・・いや、赤道直下に行けば常夏ではないか。常晩夏〜初秋の場所はないのであるか? 東京では紅葉がちょくら遅れて今が見頃。よい。

2000/12/05

海藻石鹸回想

#めちゃめちゃインスタントのビーフシチュー(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 ひと昔ブームになった「海藻石鹸」なるものは、どこにいったのか。つまり、痩せる石鹸ということであったのだが、その効果の是非もうやむやになったまま、どこかへ消えてしまった。効果の是非がうやむやなものが爆発的に売れて、それ自体の総括が行われないうちに「サッ」っと消える。なんとも男らしい(フェミニストびと用類似語提示「潔い」)商品であったのだな。
 大した広告もせず口コミ的にドカドカ情報が流布されて、効果が大してなくても目立ったクレームもなく(あったかどうかも知らぬが)、つまり、これが消費者のツボというやつなのだな。どこかに無意識の連帯感みたいなツボがあるのだ。無意識であるので計算づくでみつけることは難儀至極。
 クレームがないというのは、痩身という目的が慎んで秘すことがまだまだ一般の思考であったということや、競合商品も大して効果が期待できないものばかりだからという猜疑心のトライアル購入であったということかもしれぬ。
 でも、このツボ・・・どうやったら明確に私個人のモノにすることができるようになるのであるか?

「わたしは、ひとりの他者である」(A.ランボー)

 ふむ。
 自分を極限まで対象化する技術を会得することができれば、おそらく論理的には背面の無意識を抽出することができるようになるやもしれぬという夢想が浮かぶ。しかし、それを商業的に還元するためには、またこちらの世界に戻ってこなくてはならんでしょ。これは、おそらくあの世に行ってからこの世に帰ってくるような極限の技術。たぶん、のぞき込んだ鏡に吸い込まれて、また鏡の外に戻ってくるというモチーフはそういうことなのだな。
 自分を極限まで対象化する技術を会得しちゃったらば、たぶん俗物に戻って一儲けしてやるぜ! みたいな脂ぎった欲求はなくなっちゃうんじゃないの? その前に死んじゃうかもね。

 あと思い出すのは、町田の商店街を歩いて〈薬局〉〈雑貨店〉〈スーパー〉〈乾物屋〉(海藻だからなのか?)・・・どこもかしこも「海藻石鹸」まみれだったことだ。つまり、商品(下部構造)が流通(上部構造)を作るというのは、やはり無意識が意識を支配するということなのか? でもいまだに、市場屋や分析屋はどうもデカルトっぽいんだよね。これやってる以上は結果の出せない表面的理解の連続で、どうも大企業のウソツキ稟議システム的なオバカのゴミ溜め。

 かと言って「直感です」の一言で、組織をひっぱる人望もカリスマ性もないので、本音と建て前を泳ぐ世俗的技術ばかり身につくのが、創作者のジレンマなのだな。商人といえども、それくらいは理解してあげるので、ほんまもんの創作者なら本音だけで押し通して楽になってもよいのだよ。少なくともボクの前ではな。

2000/12/13

微化石

#京人参のなます(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 陽の落つる速さにガッカリしながら、鬱々と日々暮らしておるわけですが、これは毎年のこと。そこで暮らしの知恵として冬の利点なんぞというものを探索しておるのです、これも毎年のこと。しかし、なんとも、どうにも「なんもないで! アホ! ボケ!」という結論に達して「我慢・諦念」の薄紙を年を重ねる度に張り子のように身にまとい、大人、いやいや立派な大人、じゅうぶん大人の分別くささのつまり中年。

「冬の辛さがあるので春に晴れ晴れとできるのだよ」

 というような屁理屈を援用して同じ思いだったはずの若年者を説き伏せたりするのが、年寄りのいやな役回り。あとで「ほんとは、違うんだよなぁ」としきりに反省。

 ということであれば、やっぱり冬には利があるのだと、年甲斐もなくウインタースポーツ始めるというのは、そういうことなのだな。どういうこと? しらないよ。

 それではあんまりキャラクター的に遠いということなので、毎年鬱々と暮らすのがつまり冬という季節。

 そういえば昔、若人に迎合することなく意義ある冬の行動として思いついたのが、微化石の収集。微化石の収集とは掘り出した石を粉砕して顕微鏡で大昔の植物花粉なんぞをご覧あそばし「ふむ。この辺は杉ばかりであるのだけど古来はブナの林であったらしいな」と夢想すること。「それって面白い?」って聞かれると困るのだけれど、それは古生物や植物への造詣の深さに比例するはずなので、ボクがやっても面白くないのは分かっているのさ。だからやってないだろ?

 それより、微化石の収集というのがなぜに「冬の行動」として思いつくのかというと、花粉はかなり強固な壁によって守られてるので(だから化石として保存される確率が高いのですが)保存状態はかなりよろしい。かなりよろしいということは、現存する今そこらに舞っている花粉と判別するのがめんどくさいのですよ。だから、花粉の乱舞してない冬にやるのが望ましいのではないの? ってことになるのです。

 考えることが地味だなぁ・・・冬だからな。

2000/12/14

昔のバラエティー番組

#マカロニグラタン(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 ケーブルテレビ普及のおかげなのか弊害なのかよくわからないが、昔のテレビ番組を見たくもないのにウッカリと見てしまうことがたまにある。
 特にお笑い番組と呼ばれる古いバラエティー番組を見るとガッカリしてしまうのだな。なぜに? ぜんぜん笑えないから。つまり、面白くないのだからね。なんか楽しかった思い出に自分でチャチャいれてるようで、ちょっと悲しくなるくらい面白くないのだな。しかし、当時は確実に腹かかえて涙がチョチョぎれるぐらい笑っていたはずなのだが・・・。
 これは、なぜに?

1、当時は幼かった(そうでもないが)のでだまされ易かった。
2、お笑いというものは進化するものだから。

 どっち? どちらもシックリとしない。

 おそらくは「笑うという行為」は、送り手(主体)側が情報を提供して得られる結果ではないのではないか。逆に、情報や状況が言語的にしっかりと表出される前の段階での社会的認知行為なんじゃないかという気がする(笑ってもよいから笑う。ゆるやかな理解を表現する信号)。だから笑いの絶対性なんてものはなくて、時空的(刹那的)普遍性の泡沫。
 それが証拠に「オヤジギャク」に代表されるような世代性や地域性が露呈される。

(ある特定の恋人・夫婦・親友同士・クラス・地域だけにしか流通しない「笑い」を考えよ)

 ということであれば、ある集団の認知における許諾行為の要素(合い言葉のような)が「笑うという行為」であるということになるのじゃないの? これは言葉の意味の核とした背景が充実した時点で効力をなくすのかもしれない。つまり、ある言葉のもつイメージが集団の中でだいたい似たような形になれば笑えなくなるような気がする。

 であると仮定するならば、お笑いタレントの才能というものは、ある異質な集団を結びつける「言語前の言語」(集団の中でしっかりとした像を結ばない)を用いて言語化(しっかりと像を結ばせる)する能力。笑うというのは集団理解の核となる行為である可能性が高い。もちろんここでの用いられてる言葉や言語には無声的パフォーマンスも含まれる(互いの言語に疎通のない外国人と日本人を同時に笑わせることは不可能ではない)。


 なるほど、お笑い芸人の「笑わせる」という才能が枯渇すれば、政治家になりやすいというのは、認知度のせいばかりではないな。集団の中の情報の芯をとらえて言語化するのがうまいからなのだ。だからといってそれは実行する政治力とは全く関係ない。

 笑いは発明ではなく発見で、今さらコロンブスのアメリカ大陸発見に驚愕するヒトもいないだろ? ってのが「古いバラエティー番組」で笑えない理由なのかもしれない。

(そんなへんてこな法則はないと思うよ。永眠中の「桂枝雀」さん)

2000/12/20

タマゴかけごはん

#あんこう鍋(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

「タマゴかけごはん」(溶き卵に醤油入れてご飯にかけて食うというやつ)というネーミングが、国民的なものなのか疑問を持った(しかも仕事中に)。

 自宅にある2・3冊の国語辞典を検索してみるとないのだな。やっぱり。つまり、あらゆる規範よりもリアルな生活の場として存在している社会というもののほうが遙かに巨大なのだ。言ってることが大げさ過ぎないかい?「タマゴかけごはん」ごときで・・・。

 しかし、今まで辞書にも載ってない「タマゴかけごはん」という言葉が通じなくて困ったという経験がないのだな。つまり、社会全体を言語や映像で転写しようとしても大きすぎて無理ということではないの? いや、もしかしたら「タマゴかけごはん」というネーミングは明らかに説明的であるからということなのかもしれぬ。

「これはなんという食物であるや?」

「タマゴかけごはんにござりまする」

「珍なり。してオオモトなるものはなんぞ?(素材はなに?)」

「だからタマゴかけごはんって言ってるだろ! バカ!」

 という具合によっぽど世間離れしてるヒトでなければ、理解できるのでということなのだろうか?

 じゃ〜ちょっと新たにネーミングして取り込まないとだな(脈絡ないけど)・・・。

 今日から日本国民は「タマゴかけごはん」を「ひよこ汁飯(じるめし)」と呼ぶことにする!

 きもい・・・。

2000/12/24

クリスマス慰撫

#キスのてんぷら(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 クリスマスというのだから、日頃の無信心や起源なんぞ考えずに騒げばよいのだな。今日はその前夜祭。近所の教会もカッコよく電飾していい感じであるのでよい。

 こっちも「クリスマスイヴ! クリスマスイヴすっぞ!」と景気良く新宿まで上ってみたものの、それどころじゃないね。ヒトが・・・ヒトが尋常じゃない。しかも有馬記念だしょ。JRAのある南口じゃ、若いカップルと小汚いブルゾン赤ペンオヤジが混じって、むさ苦しいことこの上ない。

 通常の休日じゃ客のまばらな「4℃」に、ここぞとばかりに張り切る客寄せ店員を取り囲む砂糖にたかる蟻の若人・・・「GAP」は物色する客よりレジに並ぶ客の方が多い。どないなってんねん。若人は借金して高級ブランドに行ってくれよ。君らのクリスマスはそういうことにしといて欲しいなぁ。あー口惜しやデフレの嵐。

 こちらは伊勢丹の「BPQC」まで非難。ヒト少なし。「BPQC」ができて半年くらい? 企画倒れだったのだな、こんな日にこの人出なら。上のブランド屋の方がよっぽど好景気やないか。まぁヒトが少ないというのは嬉しいことなので、つかずはなれずの品のよろしいいつも通りの伊勢丹売り子とすったもんだしながら安物ジャケット購入。ルミネに行ってシャツ買おうとしたが、こっちは品の良くない巻き舌甘え声のビッタリ店員だったので、試着しようとしたシャツ放り投げて「うるさい!」と怒鳴って(これはしょっちゅうやる行動なので気分悪くなりたくない修練つんでない店員は近づかないように)帰宅。

 あークリスマスイヴだったな。

 クリスマスというのはなんぞ? そんなの常識でイエス様ご生誕の日。ほんとに? マリア母さんは処女受胎。ほんとに? まぁ、2000年前のことだし貧乏人の子供のことだから誕生日がどうのこうのなんて史実は全くないね。悲しいことに、たぶんない。キリスト教がローマの国教になるでしょ。12月25日ってと農奴が一仕事終えて「祭りでもすっべ!」な時期なんだな。ローマはキリスト教が国教になる前から12月25日が祭礼であって、わけわかんねーけどキリスト教はええべさ。誕生日にしてついでにドバッ!ともりあげっぺよ。がほんとの話らしい。しかもキリスト教は昔はとことん排他的で異教に神経質な宗教であるので、同じキリスト教でも宗教にありがちな分派は色々するでしょ。それはもう必然に「日蓮宗VS日蓮正宗」みたいに当時もあって、25日に祭りやんねーやつは同じキリスト教でも異教だべさ「殺すべ! 殺すべ!」。の些末(無関係な人間から見れば)な分別を行うために設定された誕生日寓話。だから、ほぼ100%イエス様は12月25日に産まれてはおりませぬな。もちろんローマ法王はまだ認めてないけどね。たぶん。