2002/09/02

この一杯

#空芯菜の塩だけ炒め(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 肉体労働の日。

 つまりは梱包作業というやつ。しかしご老体であるので、持病の腰のせいにして、さぼりさぼりやらせていただきました。それでも、まだ入道雲の空のもと、タラタラやってもグチャグチャ汗をかいて、日頃から上半身というものを使ってない自分を認める。

 Tシャツから汚らしくシオ吹き出すでしょ。冷茶かなんかをバカバカ飲むでしょ。それが、もう美味いのなんの。一気に身体に流し込んで、冷たいまま食道から胃に流れていくのがハッキリわかる。胃で冷たさを感じてるのが、大げさに言うと久々に身体をとりもどしましたよってな不思議な気分で、これが上戸の風呂上がりのビール一杯。いわゆる「この一杯のために生きてる」っていう心持ちに接近してるやら、してないやら。

 でもアルコール身体に入れるってのは、冷たいビールであろうとなかろうと、体温上昇させるってことになってるのだろうから、どうなの? やっぱり上戸のキモチはよくわからん。

2002/09/03

アゴヒゲ迷泳

#赤飯(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 水族館にいたら目にかけないか、スーッと通り過ぎてしまうかもしれないものが、生活空間の中にいきなりやってきたら、大変な騒ぎです。

「お前らアホか」とシラジラとした態度でいてもいいんですけど、そりゃ珍しいってことには違いないので、騒いでるヒトをアホ呼ばわりにだけはできませんね。例えば、自宅の風呂が突然アゴヒゲアザラシに占拠されたらビックラこきますもんね。

 たぶん、アホ呼ばわりしても許されるのは水族館に勤務しているお方。苦労して飼育してる海獣を普段は眺める程度にしかしない者たちが、人が変わったように追っかけてるのは、あんまり面白くないかもですからね。まあ、しかしこのアザラシ迷走(迷泳)事件のおかげで、水族館でも、ほんのしばらくは多少注目されることになると思うので、そこはガマン。商売、商売。

 それより、これでわかるのは、あるべきものがあるべき場所以外に現れたらビックリされたり、珍しがられるということだな。

「ある」ということと「あるべき場所」というのはセット販売ってことだ。それで日常は構成されるべきなので、日常とはかりそめの安定ってことだな。

 そいで、もっと深く考えれば、ときどきはこの事件性のある、あるべき場所以外に現れたりするってことは、もう一段視野を広げてみた場合の安定要素ってことかもしれない。たまに、日常性を裏切る事件が起こることによって、日常の安定の位置を確認するという精神的、儀礼的確認行為。

 お祭りなんてのは、人為的にそういうことを体験させる行為なのだから「イヤがってないでたまには出かけてみよう」ってのは自分に対しての発言。

 しかし、多摩川とか鶴見川でよかったな。ネーミングしやすくて。

 石狩川だったら「いしかりちゃん」で、なんか食うと美味そう。吉野川や黒部川や太田川、つまりすぐ人名に結びつきそうな名前だったら「よしのちゃん」「くろべちゃん」「おおたちゃん」で、なれなれしいオヤジの感じが、少し鳥肌もの。まあ、そういう川で見つかったら、そんなネーミングにはならないのだけれどね。

 でも、よくよく川の名前を思い浮かべると「〜ちゃん」でしっくりくる川の名前って、ほとんどない。

 ということは、多摩川〜鶴見川のルートは、もしかして奇跡のルート。

 まさか、あのアゴヒゲアザラシごときが、それを狙ってるとしたら、恐るべき知能。地球は「アゴヒゲアザラシの惑星」になってもいいです。ないない。

2002/09/04

便所の電球

#とり雑炊(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 便所の電球換えながら、こんなハイテク時代になっても、便所の電球は換えないといけないんだなあと思った。

 考えてみれば、電球を換えるって作業はエジソン以来あまり進歩してないのですね。電球の寿命がそこそこ延びたってことはあるのだろうけど、メンテフリーにはなってないんです。こらもしかしたら、長い間当たり前のこととして放って置かれた開発分野かもしれませぬな。

 よくよく考えれば変じゃないですか。ここまで色々なものが進歩してきたら、半永久的な発光物質なんてのは創れそうなんだけど、そうはなってないって。それともあるんだけれども、コスト的にあわないってこと? じゃなくて、靴下とかパンツのゴムといっしょで、やれるけどやっちゃうと経済的循環がうまくいかないってことかなあ?

 どうでもいいか。

 便所の電球を換えるって作業は別に嫌いな作業でないのだけれど、使い古しの電球を燃えないゴミ入れて一瞬「割れたらイヤだな」って気持ちになるのはイヤだな。蛍光灯になるとその感じはもっと強い。

 この感覚は、隣で風船膨らましてるやつがいて、それを見ながらドキドキしてるのと似てる。

2002/09/05

耳的発見

#オクラの酢の物(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 ヒタイの生え際あたりを、爪を立てて何度か強く押すと、耳の中が痒くなるというのを発見した。

 耳の中が痒くなりたいヒトには耳寄りな情報。自分だけの特異体質だったらゴメン。

2002/09/08

ビリビリ体験

#焼きそば(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 レジ近くの什器に電池がぶら下がっている。スーパーマーケットのよく見る風景。

 そしてそこには、9V電池がいまだにぶら下がっているので、ちょいと不思議な感じ。なぜに不思議かといえば、9V電池なんてものは、ここ20年以上買ってないのでね。

「そんなもの、まだ買うやついるのか?」てな思い。

 そら買うやつがいるからぶら下がっているんだろうけど、9V電池を使ってる器具、玩具なんかを連想したけど、思いつかない。でも、スーパーマーケットで売っているのだから、対象はかなりメジャーなものだろうと必死に考えながら帰宅途中のレジ袋ぷらんぷらんオヤジひとり。

 それこそ1970年代にはトランジスタラジオとかトランシーバーとかに9V電池が使われてたような記憶があるが、今は単3〜単5電池独占状態になってるんじゃないの? 昔は盛んに使っていた単1電池すらも、今じゃガスレンジの裏の着火装置向けくらい。我が家では間違いなくそれだけ。

 9Vかあ・・・9V、9V。ないな。アイボとかアミューズ系ロボットなんてのはどう? もしかして9V電池仕様? いやいや、そんなものが9V電池で動いてもスーパーマーケットで売らないだろう。

 そういえば、この電池で思い出すのは、+−の端子を同時に舌の上に乗せると「ビリビリ」来て、非常に不快であったということ。よくイタズラや罰ゲームに使ったものだな。

 もしかして、この「ビリビリ」体験のある世代が「今でも、ビリビリするのかなあ?」ということで試し買いしてるのが最大の購入動機だったら、すごいなあ。

 四角い電池を味見しているオッサンがたくさんいるってのはどう? 舌の上に乗せて「ビリビリしますなあ・・・」と懐かしがってるヒトが日本中にいる。アホだな。

 ところで、今でもビリビリするのかなあ?

 少し欲しい・・・。

2002/09/11

たぬき

#湯豆腐(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 神楽坂から飯田橋に向かってる途中でタヌキの置物をみつける。

 えらくリアルな置物だなあと思って近づいてみたら、剥製にしたタヌキを起立させて、ちょうちんを持たせていたんだな。

 他人の好き嫌いにつべこべ言う趣味はないが、なんだか痛々しい。死骸になって滑稽を演じさせられてるってのは、もの悲しいもんだなあ。タヌキに同情。

 まあ他人のことは別にして、こちらの都合で溺愛したり、嫌悪したり、美味しくいただいたり、キンタマ抜いたりしてる一味には違いないので、代表で陳謝。

 クジラ食いてぇ。

2002/09/14

和歌山掘りまくり作戦

#きゅうりのぬか漬け(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 渋谷駅界隈を歩く。

 渋谷みたいなバンクの底みたいな盆地チックの地形の場所が、垂直方向に過剰に発達してると、東西南北がよくわからない。もちろん人ごみのキライな田舎モノだからという理由が一番大きい。

 磁石を持たない人間が方角を判断するとき、風景から推測することが多い。しかし、それは先入観からほぼ無意識に判断するということで、間違った判断になる場合があるな。

 広島育ちのボクは、山は北に、海は南に、川はほぼ南に向かって流れていると無意識で感じてしまう。しかし、山陰の人間は逆に、山は南に、海は北に、川はほぼ北に向かって流れていると感じているんだろう。そして、鉄道の線路は東西にのびていて、駅の出口は北か南。降りて山が見えれば北口から出たと思いこんでしまうのであるな。

 ひどいときは、この先入観を意識してとりのぞいてから、進むべき方向を考えないと迷子になってしまう。

 たとえば岡山駅は、中国地方の駅のクセに南北につったってる形になっているので、東口と西口になってるはず。こういう場合は意識してないと、方角がわからなくなる。北に向かってるつもりで、どんどん東に向かったりするのだな。するのだなじゃない、どんどん向かってしまった経験ありだった。

 高校の時に、松本清張の『陸行水行』という小説を読んで、ようするに邪馬台国の大まかな位置もよくわからいってのは、『魏志倭人伝』の記録に南水行10日なんてわけわからん記述が残ってるからだってのを知った。北九州から船で南に10日も航海したら、太平洋ひとりぼっちじゃねぇーかってことだな。

 それを素直に考えて、実は邪馬台国は沖縄じゃないの? とか、アトランティス伝説みたいに沈んだ島があるんじゃないの? とか言うヒトも出たりしたのだな。

 当時の雰囲気として、邪馬台国は、ほぼ九州で確定でしょって時代。

 つまりそうなると『魏志倭人伝』の記載は、10日ってのを記録係が間違っちゃったのでしょ? って判断になっちゃいますな。松本清張の小説でもほぼそんな感じだったかなあ?

 ボクはそのとき直感的におかしいなあと思ったのでしたね。もちろん素人の判断として。

 なぜかというと、多くの人間が同時に、自分らの行動記録を間違っちゃうとしたら「行動時間」と「方角」の場合、「方角」の方が圧倒的に確率が高いと思った。しかも10日って言ってるんだから、何日寝たかっていうアバウト極まりない記録。これを間違うなら記録なんかしないほうがいいと感じた。

 絶対間違わないとは言わないけど、実際航海した人間の記録としたら意識的に、邪馬台国の場所を隠すために間違った記載をしたか、後々写した人間が解読しにくい文字を「これは一かい? それとも十かい? エーイめんどくさい十にしちゃえ!」ってやってしまったとかの間違いってことになってしまいます。

 

 関門海峡は、小学校の修学旅行のときに初めて行った。行けばわかるが、その狭さは、下関側からプロ野球のピッチャーが石ころ投げたら九州側に届くんじゃないかって距離。実際には無理な距離だけど、そう思わせるくらい狭いのだな。

 この海峡を魏のヒト(中国人)が通ったとしたら、河口から川を上ってると感じたんじゃないか? と当時は考えたのです。そして魏の地理的記憶がもたらす推察と日本列島に対する地理的知識と風景イメージでもって方角を考察して、南に向かってると判断したんじゃないかと思ったのです。中国人が瀬戸内海を見ると、日本にも長江のような立派な川があるじゃないかなんてことを言ったなんて話も聞いたことがあったので、きっとそうだと直感したのです。

 そして高校時代のボクは地図帳を凝視して、入江を9カ所「ここと、ここと、ここと・・・」とやりながら、邪馬台国は和歌山県である。と結論づけてワクワクしたのだな。しかも、なんとなく根拠もなしに、等高線をながめながら、オレだったらここに国造りの命(みこと)だなあと考えたのが「九度山」。しかも、名前が「9泊して10日目に着く山」っぽいでしょ? 実際の名前の由来はそんなに古くないだろうから、ただのこじつけにしかならんだろうけど。

 当時はいいねぇ、いいねぇと思って、興奮しながら友人に話してバカにされたのだな。なんたって、九州で間違いないでしょって時代だったからね。

 しかし、その時から秘かに、当時の魏の都の役人らが住んでたって場所に立って、瀬戸内海を東行する状態を南行してるように勘違いする先入観の要因がそこにないか? そういう風景になってるんじゃないか? ってのを確かめたいってのと、九度山を掘って掘って掘りまくりたいっていう欲求が発生。しかも、今でもその気持ちは少し残ってる。

 だって、今からでも「親魏倭王」の金印を掘り当てたら、お国にお納めしたとしても副次的に一生それで食えるでしょ?(笑)

「漢委奴国王」の金印が見つかったのは江戸時代だからね。たった200年ちょっと前。絶対イケルって!

 いっしょに掘りませんか?