2004/02/07

穀類v.s.魚類v.s.霊長類

#くるみ(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 一週間前の今日、つまり先週の土曜日。左手の親指の腹を2.5センチほど切った。タイプするたびに絆創膏がジャマで、イライラしてたのですが本日よりイライラ解放。切り傷は少し浅く残っているのだけど、まあ「もうイラネーや」の状況。

 ところでこの指、なぜ切ったのかというと、これが人生始まって以来の体験。

 結構前になるのだけれど「ドイツパン」なる、無骨なパンを購入。「ミミまでやわらか〜い」なんていう、過保護でセントラルヒーティングみたいなパンではなくて、それは暖炉のようなパン。あいかわらず分かりにくい。役者に例えるとの高倉健。ますます分かりにくい「不器用ですから」。

 とにかく、そのパンを大量購入してしまったので、必然残ります。

 それを、放置しておいたのですが、カビないで残っておりましたとさ。カビてはないけど、硬化が激しく食用には相応しくないシロモノ。でも、捨てるのはもったいないということで、賢者であればオロシ金かなんかで、パン粉にしたりするんでしょうが、それもめんどくさい。

 ということで、散歩がてら神田川のコイとカモにくれてやろうと持ち出したのです。命名「コイパン」(あまったパンのこと)。

「庖丁いいっぽ〜ん、サラシにまいて〜♪ (コイパンがワテに・・・・・・)」

 などと、ヘンテコな鼻歌とセリフを何度も繰り返しながら、神田川沿いを歩いておりました。アホですな。

 すると、冬だというのに活発なコイがウヨウヨ溜まる橋の下。よし、めぐんでやろう。この利口な霊長類がバカな魚類に施してやるぞとばかり、カチカチのコイパンを取り出し、パンを割って投げ入れる、割って、割って、割って! 割れません。全く割れません。

 それでも、橋の欄干なんぞにカンカンぶつけて、なんとか二つに割りました。しかし、魚類の口はこの大きさより格段に小さいだろうから、もっと割らねばならぬな。と考え、さらに細かく砕こうと尽力する霊長類一匹。

 そして、二つに割れたコイパンのひとつを渾身の力でつかみ、エイッとばかりに割りかつ裂こうとしたら、手がすべってポトッ。地面に落としてしまいましたな。次の瞬間、指に激痛。左手親指から血液がしこたま。

 なんと、最初に割ったコイパンの露出部分で指を切ってしまいましたとさ。この日は「パンで指を切った霊長類の日」として記録されるべきでしょう。割れて露出した部分が、ノコギリの歯のようになっていたんですね。ドイツパンは危険。

「え〜っ、ウソッ」血を見た瞬間の狼狽。アドレナリン大量放出。したたか頭にきて、二つに割れただけのパンを魚群に向かってオーバースローで全力投球。「ポコン」そのウチのひとつが魚類の頭にでも当たったのでしょう。明らかに水面からのものとは違うヘンテコな音。

 八つ当たりですな。スマン魚類。

2004/02/10

アキバより

#きいちご(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 途上確認の習慣がない留守電やらメール。帰社して確認してみると、大量の情報が全く同じことを告げていた。

 燃えてた。ビックリした。無事だった。安心した。

 心よりお見舞い申し上げます。

2004/02/26

全部ウソならば、全部ホントウだ

#源氏パイ(これは今食べたいもので、以下とは無関係です)

 日中、春スタート。夜間になってやや小冬ぎみ。頭の重い展開に思わず、ナンピン仕掛けで「オラ上がったらんかい! 気温」なんて叫んでみても、季節は上場しておりませんので悪しからず。ってなんの意味やら、わかるヒトにはわかる、わからないヒトには全くわからない。

演劇鑑賞。

『カメレオンズ・リップ』 シアターコクーンオンレパートリー2004。

 作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ。キャスト:堤真一、深津絵里、生瀬勝久、犬山イヌコ、山崎一、余貴美子、木村悟、林田麻里。

 

 ロジカルにモノを考えなければならないヒトは、これあるのであって、科学者やらエンジニアやら軍人やら、やらやらやら。

 でもしかし、このヒトたちがヒトであるということを捨てておらないのであれば、ロジカルにものを考えなければならない場面とそうでない場面というものを節度をもって分けていなければ、一日たりとてまともなヒトとして暮らしておれないのですね。ですよね? すなわちヒトとして生きていくには、ヌルさ、いいかげんさ、バカバカしさを包含しておかなければ、はたして狂人。

 その見地からみた「ウソ」ってのは、わかりにくい。見地ってのは、ヌルーイまともなヒトってところからってこと。

 仮構の上に定義付けられた「ウソ」、すなわちロジカルに切り取られた、科学的というか、そういう狭義の上の「ウソ」は分かりやすいでしょう。つまりそれらにとっての射程であるところの真理ってものがあるでしょ、あるかもね、アルカポネ? ってものみたいなのがあって、その真理以外はぜーんぶ「ウソ」。

 実にわかりやすい。わかりやすくない?

 でもしかし、真理が真理である以上、ウソは絶対的なウソであらねば成り立たない。じゃ、そんなものこの世の中にいくつあんの? って問われると、困ります。はい、頭グニュグニュになっちゃいますね。

 んじゃ「ウソ」なんてものは、この世にほとんどないっていうのかよ。ってことになっちゃいます。もう、他人にオマエはウソツキだ、モチツキだ、キツツキだ、なんて言えなくなっちゃいます。でも、堂々と言えるのは、それは「こういうことは、ウソって言っていいことにしようじゃないか」っていう、逆に言えば「こういうことは、事実だってことにしようじゃないか」ってものが目に見えない、クソ力で存在していて、それに準じていれば、一般的な生活ができて、ヨカッタ、ヨカッタ。

 つまり、地球が回っているなんてのが、上部のロジカル世界で確かにそうだ、疑いようがないねって、ことになってない時代ってのは、地球が回るなんてこと言うやつは、ウソつきに違いないんだよっていう、生活上の意見一致がはっきりしてました。ってことなのです。それが、いいことだか、悪いことだかは、どちらに体重を乗せるかだけの問題。

 ヌルい生活世界では、みんなが、ほんとうだって思えば、ウソはウソでないのです。つまり、ウソをウソではないホントウのことだってみんなに思わせる、作為的な虚偽行動、発言、これが、生活の中でのウソ。騙すってこと。ウソはバレなければウソにならないという、だから、これはウソなのかホントウなのか、どっちやねん! あーっ、頭が痛い、頭が痛い。ウソの意味を二重に使ってるので頭が痛いのです。

「だから、みんな単純に科学的に生きて頭痛から開放されようぜ! ビバ、法治国家!」ってそんなハナシでは決してなく・・・・・・。

 このこのが、証明していること。あたなは、知らず知らず、毎日、間違いなくウソをついているのだけれど、ウソつきではない。ということ。生活の中には無自覚なウソが大量に入っているのだけれど、作為的でない限りにおいて、ウソつきにはならないのです。どうです?

 でも、上手に作為的にヒトを騙せるヒトは、そのウソをホントウのことだって信じてからウソをつくでしょう。困った。また頭が痛い。

 はい、そこで問題です。

・登場人物、つまり関係をもつ集団の構成員全員が、作為的にウソをつく人間だけだったならば、その外部の視線から、つまりあなたは、誰がどこで、どのようなウソをついているのかってのを指摘できますか?

・あたなが、この構成員のひとりで、唯一作為的にウソをつかない人間だと仮定したら、あなたはホントウのことを言い続けられますか? また、この場合の「ホントウのこと」とは、どんなことでしょう。

 答え:『カメレオンズ・リップ』を観よ。

 なんてね。つまり、一般人の生活をモデルに(抽象)して、人間の関係の危うさを顕微鏡で覗くようにデフォルメしちまえば、こんなふうになるよってことでしょう。人間ってのは恥ずかしーね。いいかげんだし。バカだし。まったく。

 不思議なのは、演劇ってのは虚構の世界だってことを、構えてから観るでしょう。しかし、演じている内容が、すべて虚構の中の虚構物語つまりウソってことになると、演劇そのもの、つまり外側の部分がホントウのことのように錯覚されるのですね。錯覚のリアルがあぶり出しのように浮き出てしまいます。これは、個人的な感覚。

 だから、こんな物語をつくるってのは、もしかしたらルール違反? だけどスゴイ。

 

東京:シアターコクーン 2004年2月6日〜2月29日。