1999/10/31  も ど る  

日記は復活するか?

#鱈の小鍋立て←これは今食べたいもので、以下とは無関係です。


 自分の人格を相手の骨の髄までねじり込ませたい衝動にふと気づいたとき、すっと逃げてし

まう癖がある。

 そういうとき「オレってオトナになったなぁ」と思うと同時に、自分本来がもっているエネ

ルギーが枯渇してるんじゃないか? と感じる。要はなんか分別くさい型みたいなのができて、

身のかわし方が上手くなったに違いないのだが、少し寂しい気がする。オレって省エネタイプ

の性格に変わっているんだ。脂っこさが抜けて酢の物みたいになっていくんだなぁとつくづく

思う。

 自分の人格を相手にねじこみたいという衝動は、大なり小なりみんな経験しているんじゃな

いかと思う。極端に相手の迷惑になったりすれば、ストーカーとか、ワガママ勝手なバカ野郎

ってことになる。自分の中のストーカーな部分と葛藤しながら生きてるヒトってのはかなりい

るはずだし、それとなんとか折り合いつけられるようになることを社会は要求してるに違いな

い。


 さて、ストーカーは増えたのか? ストーカーという名前がつけれらるまえからストーカー

は存在していたに違いないし、名前のついていないときに統計なんか存在するわけもなく、そ

もそも、名前が付くぐらい深刻な状態になったのだから、増えてるに違いないという見方もで

きる。定義も不明瞭だと思う。


 想像でしかないんだけど、社会がどんな小さな相手を傷つける行為もタブーとしてしまう方

向にいけばいくほど、極端なエゴの露出というのは増えるに決まってると考えている。小学生

をこのての透明な理念でおさえつければ、中学校で露出してしまうし、中学校でやれば高校で

暴露される。思春期にあるエゴを露出して自分を表現しないとたまらないよという時期にそれ

があたれば、極端にあらわれるに決まってると思う。性的にも通常の生活レベルでもその思春

期のエゴを押さえてなんとかうまくやったぜと思ってるヒトは、成人してからエゴの操作方法

がわからずに、下手な振る舞いをしてしまうっていうのは想像に難くない。


 政府公報レベルで「イジメストップ!」なんてやってるこの国はなんじゃらほい? って気

がしてしょうがない。オヤがガキのケンカに口をだしてはならない。という昔の共同意識はど

こにいったのかわからないが、子どもの係争をオヤにごちゅうしんしても、昔は相手にしてく

れなかった。救済のないことでひどくきつい目にあった記憶がぼんやりとあるが、そのおかげ

で、どうすれば人間の魂に傷がつくかという学習は小学校のときに終えてた気がする。凶器を

もったり、変な知恵をつけたり、腕力の大きくないときに、粗方その手のデータを収得させる

というのは、必要な気がする。ケモノの子どもどうしが疑似格闘をするような振る舞いみたい

なものだ。


 しかし、こういった想念は、歳をとったための復古趣味のためなのかもしれない。「今はそ

んな時代じゃないよ」って言われれば、そうだな、そりゃそうだってことにもなる。


 ともかく、透明でないってことに劣等感もつ必要はないってだけで大人は楽だ。