1999/12/04 も ど る    

今年最後のお願い

#トロロ昆布←これは今食べたいもので、以下とは無関係です。


 さてさて、我々商人(あきんど)が1年でいちばんはしゃぎ回る12月なのだな。

 仕事納めまではエンドロフィン出っぱなしで、正月明けには廃人になってしまうという世に

も怖ろしい時期なのでそりゃもう大変です。

 大したことないことで怒鳴ったり、意味なく暴れたり、馬の耳に念仏となえたり、豚に真珠

買ってやったり、棚からボタモチ強奪したり・・・そんなやつはいませんな。いや、総人口1

億3,000万人だ、一人くらいはいるかもが究理の心。馬の耳に念仏となえてるやつがいればきっ

と商人だ。見かけたら「大変ですね」と優しく声をかけてあげよう。

 ということで、カリカリして八つ当たりしたり、怒鳴ったりしたら、まだ人間ができてない

と笑って無視してくださいってのが、今年最後のお願い。

 これから、気分を悪くするヒト、いまのうちに「ごめんなさい」。





1999/12/09 も ど る    

手 帳

#フレンチクルーラ(プレーン)


 日割りの手帳が残り少なくなって、12月ってば1年分の落書きまみれになりがちだし(カレ

ンダーに書き込めないようなメモはとりあえずうしろからしてしまうため)、来年の手帳を買

いましたとさ。

 まぁ、それは毎年のことなんだけどさ。来年の手帳を早く入手しておけば、だいたいのもの

は12月中旬以降もしくは、下旬以降がスペース調整(印刷工程における紙の無駄遣いを少なく

するためだと思う)のために埋草(うめくさ)的にサービスされてるから、年内中に強制ジョ

イント。

 詳しく説明すると、印刷ってのは、8頁もしくは16頁を一度に印刷して、コチョコチョ折る

でしょ。これを編集さんは主に「ひと折、ふた折」、印刷屋さんは「いち台、に台」って単位

表現してますね。編集さんが「いち台、に台」って言う場合もあります。

 ようするに、「断裁」(だんさい)っていう工程で、むりしゃり折ったでっかい紙(むりし

ゃりではないですな)をカッターのオバケみたいなので「キュン!」っと切ってやっとページ

と呼ばれるバラバラなものが完成でめでたいってなもんです。「キュン!」って切る機械のギ

ロチンみたいな刃を落とすときは、職人さんが両手でボタンを押すようになってます。片手で

押すと寝ぼけてて刃物の下に、もう一つの手を置いてしまって、なんも不義理なこともしてな

いのに指つめたりして「親分これでいいですかい、へへっ」なんて笑い事じゃすまないことに

なってしまうので、そうなってます。ただ、世の中には両手が不自由じゃないってヒトだけじ

ゃないですから、そういうヒトが作業できるために、片手で操作できるように両手操作を解除

する方法もあるらしいです。べらんめぇな職人さんなんかが「こちとら忙しいんでい! うだ

うだ両手なんか使ってられるかい!」などと言ってその機能をこっそり使う場合もあるらしい

です(危ないからやめてね)。もちろん大量生産されるような雑誌なんぞは断裁工程なんかは

自働化されてるんだと思いますけど・・・

 つまり、16頁(もしくは8頁)っていうのは、1枚のでっかい紙に印刷がほどこされたあと

に出てくる魔法みたいなもんだということです。そうすると、なにも印刷されないスペースが

あると無駄になっちゃうでしょ、真っ白です。もったいないですから、なにか印刷しちゃって

役にたてましょうってのが、たぶん12月下旬からの手帳のサービス(だと思う)。印刷されな

いですててしまうような頁の余った部分をヤレ紙(ヤレガミ)とか言ってるのを聞いたことが

あります。印刷関係のヒトに知り合いがいたら確認してみてくださいな。

 いらなくなった少年ジャンプでもマガジンでもいいですから、天(本の上の部分)を注意深

く見てみれば、沢山の異質の紙がボンドで束ねられてるのがわかるでしょ? それをバラして

頁を数えてみてください。構造がよくわかると思います。それと、文庫本で天がグチャグチャ

になっているのに出会ったことないですかね? あれは大きな最初の紙を折ったときに、その

紙の端が集中して断裁しなくてもいいので、できてしまうものです。折りのズレとも最初の紙

が不正確なものともいえるんですけど、断裁しなくても袋状になってないのでそれでいいって

もんです。昔はみんなそんな感じでしたけど、最近はただ平面にするためだけに薄く断裁して

キレイにしたりするのがほとんどですね。その工程のことは「化粧断ち(けしょうだち)」と

言います。

 とにかく、来年の手帳に今年の12月が何日含まれるかってのは、その手帳を作ってる会社の

サービス精神とかそういうんじゃないところで決まってるので、あまり気にしないでよいです

(誰も気にしてませんね)。


 しかし、今年は新宿の東急ハンズに行って買ったんだけど、どれもこれも表に「2000」って

書いてあって・・・お〜っ! 東急ハンズは「2000」っていう名前の新メーカーの独壇場なん

だ、すげ〜っと一瞬思ったけど2000年ってことやね。あたりまえだ。「19××」ってのなら見

慣れてるから、すぐ西暦だと理解できるけど「2000」ってとすぐには西暦って判断してくれな

いんだ、マイ脳味噌。これが私の最初の千年紀(ミレニアム)体験。がっかり。





1999/12/13 も ど る    

仕事を楽しむ

#おでん


 明治以降のことなのか、もっとさかのぼれば狩猟採集の季節。たぶん、おそらくそれは未分

化の時代があったのは確実だろうと思うのです。

「仕事=遊び」もしくは、「仕事=遊び=生活」。そんな時代がうらやましいかっていうと、

ちょっと違う気がしますね。分化してないということの意味のなかには、仕事のなかに遊びと

いう楽しみがあると同時に、遊びのなかに生活という切実な部分も統合されてるわけです。

 だから、一部のナッシングウェザー(のーてんき)な連中が言うほど、未開である(もしく

は近い)ということは人間の本来性において、正しいことだという言説には、真っ正面から反

対します。未分化な状態が仕事と生活を結びつける切実な状態を解決するということなら、す

でに歴史はそこで止まって、ある程度定着しているに違いないと思います。

 とはいっても、仕事が遊びに似たもの、楽しいものと考えられるというのは、心の問題とし

ていいことなんだろうなぁと思います。

 日本の仕事に関する精神的歴史は明治以降、西欧の強迫観念で極端に意識的に切り放された

のじゃないかと思います。仕事を楽しむということに対する罪悪感みたいなものが、つきまと

ってしまうというのは、そういうことなのかなぁと考えてます。

 どう考えても「仕事」と「遊び」は本質的に同義ですから、本来的な距離はない。その結果

に対して物質がからむかからまないか、献納的なシステムが介在するかしないかの違いしかな

いんじゃないでしょうか?

 それが、ここのところ、これもたぶん米国の影響大だと思いますけど、仕事をゲームのよう

に楽しむということが思想として正しいという方向に牽引されつつあるような気がします。も

ちろんその原因は、わたしたちの周辺をささえている産業が、ものを作るというものから、売

ったり、流通させたりというというものの重量が増大してるからに違いないです。結果にピリ

オドを打ちにくいものが産業の中心になるということは、精神的に分化して効果を検証すると

いうプロセスが杓子定規にいかないですから「遊び」を並列して押し進めないと辛いというこ

とになりかねないということなんじゃないでしょうか。しばらくは猛烈営業マンとか、極めて

工業的な総括によって、消費するひとを平板に分析して進めることができたんですけど、それ

は、集団として平板たろうとする人たちの共同意識の上で成立してた短い期間の夢物語でした。

 同じものをたくさん売るというということ、または売れるということは、そういう本質より

上部の意識に裏打ちされた、陰謀者の存在しない作為的意識が謳歌した時代というものになる

んじゃないかと思います。

 今はどうか? というと、全部そういうものがなくなったという時代じゃなくて、まだ残っ

てる、壊れつつあるけど余韻はあるよという時代になるんじゃないでしょうか。国民的なもの

というものが存在しにくくなっているには違いないですが、自分の自我と遭遇すると価値を得

る商品を求めるヒトと破壊されつつある集団的なモノを創造することによって、寂しさをまぎ

らわせようとするヒトが同時に存在する時代。それは、個人の中にも並列に存在してると思い

ます。カルトな宗教やどう考えても実力も神格性もエロスのカケラもないアーティストに、仮

構の物語を乗せてヒトが集いやすいってことは、集団的な意識の破壊過程の反動であると思い

ます。つまり相当に寂しいんだと思います。


 日本人が仕事と遊びを無理なく同時に意識できるようになるには、もう一世代くらいの時を

得ないと無理だという気がします。

 この前のバレーボールワールドカップで、監督さんが選手に眉間にシワ寄せて「いいか! 

楽しめ! 楽しまんかい!」って言ってるシーンを見て、上辺だけをマネしてるなぁと思えて

しょーがなかったです。そんな恫喝して言うことやないですよね。選手も選手で「今日は負け

たけど、楽しみました! 明日も楽しみます!」でしたよね。たしか。

 これ内面的な問題として、あんまり変わってるとは思えなかったです。ただ「ガンバル」と

「楽しむ」という言葉をとりあえず交換してみたってだけになってるような気がしました。プ

レーしてるほうは失敗の免罪に少しはなってるような気がしましたけど、見てるほうは「ガン

バレ」と明確な違いは発見できなかったですね。むしろ、やさしい言葉のほうがエグイって感

じがしてよけいに萎縮しちゃったんですけど・・・





1999/12/16 も ど る    

反 省

#かっぱえびせん


「反省」というのはダサイ。どれくらいダサイかってと「努力」と同じくらいにダサイという

ことになってるんじゃないかと思う。

 言葉の背景に暗く「いやなことをすること」という抽象性を背負っているからなんだと思う。

小学校以来、教師という教師にその暗さを深層までねじ込まれてるってことの抵抗のような気

もする。その教師も教師でそのひとつ前の教師に呪いのように「反省」「努力」を暗いイメー

ジで、理解力の小さいときに放り込まれているに違いない。これは、どう考えてもダサイ言葉

にならざるをえない。ひとつの金言が有効性を失う過程ということなんだと思う。金言が有効

性をもつ条件というのは、その言葉の価値にまだ、普遍性がなく、熱狂に達してない不整備な

時代であるということになるんじゃないだろうか? 世の中に「反省」も「努力」もダサくて

やってられないよという状況が蔓延して、その蔓延が歪みとなって社会に出てくれば、また、

その言葉はリサイクルされるに違いないと思う。


 なんにせよ「反省」はその暗さと転倒を起こして、やがて人間としてしてはいけないことと

いうところまで失墜するのかも知れない。いや、すでにその転倒は起こっている。

「反省」自体は、意識や方法をよりよくするための、つまり再構成するための思考の流れなの

であるのだから、有効があるもないも「反省」できないということはタダのバカなのだし、精

神の流れがごくごく一般的な人間で「反省」しないヒトはいないに違いない。だがダサイ、し

かも暗い。

 それは・・・「反省」の発語と同時に以下の想念に縛られるからに違いない。


「なぜ、ダメなのか?」「なぜ認められないのか?」「なぜ売れないのか?」


 これは、暗い。暗いどころか、こんなこと考えたって無駄である。だから「反省」は無効で

あるということになるんだと考えたほうがよい。

「なぜ、ダメなのか?」・・・ダメだからに決まってる。これ以上この方向で考えるのは時間

の無駄だ。「なぜ認められないのか?」・・・認められないから認められないに決まってる。

「なぜ売れないのか?」・・・売れないからだ。

 しかし、この内向きの思考のみが「反省」ということになっている。だからダサイ・・・

 意識や方法をよりよくするため、再構成するための思考の流れが「反省」ということならば、

その方向は、必ず開いた方向に向かわないとダメだということになる。そのときにおいてのみ

「反省」は金言になると思う。


「ダメじゃなくするにはどうするか?」「認められるためにはどうするか?」「売れるために

はどうするか?」


 結局同じジャン! と思ったら、そのヒトはたぶん自然と「反省」を有効に使っているヒト

なんだと思う。目からウロコが落ちたヒトは、最近、気持ちが弱くなってるかもだから、運動

したり、他人と無駄話なんぞをして、元気を取り戻してほしい憂鬱な冬の寒中見舞い。