1999/07/13  も ど る  

東京の基本 その2

#そらまめ←これは今食べたいもので、以下とは無関係です。 ×←これは、体重減少目標到達の記

録です(○=到達、×=到達できてない 4月14日 参照)。


 江戸時代の古地図、伊能爺が書いた

精密なもの以外の地図なんかを神保町

あたりで眺めていると、人間の都市に

対する空間認識は、ほぼ円形なんだな

ぁとつくづく思う。

 左の衛星写真の内側の円は、万延年

間(幕末)に描かれた江戸図を大ざっ

ぱに重ねて描いてみた。江戸時代の東

京湾の干拓工事は、合理的必然という

のではなく、なんとなく、イメージの

必然なんだろうなぁと思う。円形から

欠如された湾部が現在にわたる埋め立

て地域の突端になっているからだ。

 だいたい「トウキョウ」と発語して、行政区域をイメージする人間は少ないと思う。まさか、

桧原村・奥多摩町・大島・小笠原諸島までをきっちり思い浮かべることができる人間はそんな

にいないだろうし、ぼんやりとした円形ととらえてるのが普通だと思う。

 地方にいたころは、東京23区と呼ばれるところをイメージできれば、だいたい東京通とい

うことになるし、ほとんどの人間は、ピンポイントで新宿・渋谷・原宿・浅草の風景を思い

浮かべてたような気がする。

 人によって違うと思うが、東京ではなく「トウキョウ」の空間イメージはどれくらい拡が

っているのかを、私において(もしかしたら、かなり多くの人間がこういうイメージでトウ

キョウを思い描いているような気がする)描いてみたのが外側の円だ。

 不思議なことに、その円は大宮・所沢・立川・木更津・我孫子あたりを境界にして拡がっ

ているのがわかる。つまり、埼玉・神奈川・千葉をイメージは浸食してしまっている。東京

湾はほぼすっぽりと円内に入ってしまっていて、ここでもまた「東京湾横断道路」なんての

は、合理的必然(渋滞回避)という意味より、イメージの必然ではないかと思わせてくれる。

 東京ディズニーランドは円の内側、成田国際空港は円に接する外側、なんてこと考えると

なんとも、集団的空間イメージのコンセンサス(仮定だが)は、かなりのパワーをもってい

ると思いたくなる。そこには土着的郷愁も権利主張もなく、ほぼ蟻が巣をつくるがごとく、

集団的無意識によって形というものはつくられていくのだなぁ〜 と遠い眼をしてしまう。

 石原慎太郎の「横田基地を国際空港にするぞ!」的発想も半分はオリジナルとしても、半

分は無意識的空間認識によっていると考えなければいけないだろう。もし、イメージの円が

もう少し小さかったら「立川の陸上自衛隊駐屯地〜昭和記念公園」あたりが、ターゲットだ

ったかもしれない。


 膨張しつづけて来ただろう、トウキョウの都市空間イメージが、来世紀中に日本海まで突

き抜けていくということはないにしても、この円形イメージは変わらないような気がする。

人工的な巣のイメージは円形に拡がると思うからだ。もしかしたら、東京の発展、ひいては

日本の発展は、山地国にあって、歴史的偶然ともいえる、関東平野という大きな平地に首都

機能を置いたからかもしれないと思わせる。そう思えば、地形的限界も近いのかもしれない。

もうすぐそこまで、山地がせまってきて、イメージを膨張させるためにはものすごくコスト

のかかる大工事を敢行しなければならない。そこまでやれるか? やってしまうかもしれな

い。しかし、発展や経済感覚がベクトルである以上そのスピードは、かかるコスト分だけ鈍

化するに違いないだろう。それまでに人間の空間イメージが情報伝達という部分を包含して

もっと空想的にイメージできるようになるかが問題なのかもしれない。3次元でイメージし

ていたものを、4次元でイメージできるようになるかということだ。私の知っている限り、

「このヒトは空間を4次元でイメージしてるヒトだなぁ」と思わせてくれるのは、一部の芸

術家や物理学者や天文学者くらいのものだ。だいたいが3次元はおろか、私を含めて通常は

2次元でしかイメージできないのではないかと思う。


 話がぜんぜん分からなくなってきてると思うので、分かりやすい例をひとつ・・・


 トウキョウのイメージは間違いなく拡がってきている。少なくとも江戸人の持っていたイ

メージの半径にして2倍近く、必然的に面積にして4倍近くということになる。

 問題はこのイメージはどうして拡がるのか? ということになる。

 簡単な話、人口(住むヒト、働くヒト)が増えれば拡がる。開発が進むと拡がるというこ

とになるんだろう。しかし、反対に人口を増やすことのできる空間が拡がることによって拡

がるということもできるので、一種自律した都市の生物学的な考え方もできるような気がす

る。つまり、トウキョウは生きてるよ的なオカルトチックな発想が、うまく説明してくれそ

うな感覚。円という2次元を半円球という3次元のイメージにすれば、それはもう生き物み

たいにみえてくる。まだ、分かりにくいなぁ・・・

 イメージしやすいように、大ざっぱにコストだけを問題にして説明すると・・・

 八王寺に住むひとが、丸の内あたりに通勤すると往復で1,500〜1,600円かかります。定期

にしても1,000円くらいはかかることになります。このコストはどういう意味をもつのか?

また、水平方向のイメージを広げようとすると、交通機関のスピードを上げるということと、

運搬能力を上げる(増発・新線の工事)ということを行わなければなりません。このコスト

はどうして計算されるのか?

 ようするに、交通機関のコストやその技術開発のコストや通勤そのもののコストというの

は円形の水平方向、2次元の要素ということになります。それらは、帳尻(採算)が合うよ

うにしか拡がりません。そうすると2次元のイメージのままだと人口を無理矢理増やせば、

そのバランスによって拡がるということになります。

 しかし、3次元のイメージにすると、垂直に延びるためのコストとバランスをとっている

というイメージになります。つまりビルや高速道路を増設するコストが与えてくれる空間と

バランスをとって、勝手に拡がっていくというイメージです。高層ビルが提供してくれる空

間よりも水平に拡がるコストが安くなれば、必然的に拡がっていくのだというイメージです。

 逆に、水平方向への開発コストがメチャクチャ高くなれば、トウキョウの中心部はどんど

ん垂直方向に延びていくんだろうということです。乱暴だけど、大ざっぱに言えばそんな感

じになるんだろうと思います。


 次の段階(来世紀の早い時期)ではきっと「結構いっぱいいっぱいになりましたんで、遷

都でもしましょうか?」って今でもたくさんいる短絡的2次元オバカな意見と、「増えるに

任す!」という3次元的、バカじゃないけど無責任な意見と情報通信の発展によるちょっと

異質な4次元的空間認識(4次元遷都)の葛藤が、三つ巴の戦いを繰り広げてくれることに

なるんだろうと思う。楽しい限りだ。


 衛星写真をボンヤリながめてるだけで、かなり確信に近い想念でいっぱいの世紀末の今日

この頃・・・





1999/07/21  も ど る  

雨と臨死体験

#刺身こんにゃく ×


 昼下がり。

 商店まばらな環状7号線を三軒茶屋方面から駒沢大学前駅方面に向かって歩いていた。

 2kmある行程の途中で、雨に降られた。出かける前から空はすでに暗く重そうな雲に覆わ

れており、用心深く傘は用意していた。

「そういえば、世田谷の殺人事件はこの近く(桜新町)だったなぁ」

と、暗い風景に触発されていやなことを思い出した。ふと振り返ると、小さい黄色い傘を肩

にかつぐようにして、幼稚園に上がったか上がってないかくらいの、女の子がひとりだけ歩

いている。彼女はヘラヘラとうすらわらいをうかべながら、まるで私を尾行しているような

関係になっている。

 車は環状線を渋滞にならんばかりに走っているも、歩道に人通りはなく、商店もない。殺

人事件のことや、記憶に新しい誘拐事件のことを思い出して少し心配になった。少女に声を

かけて自宅を聞き出し、そこまでおくってやろうかとも考えたが、その方がよっぽど怪しい

オッサンに思われそうだ。しかたなく、歩速をゆるめてうしろをときどき気にしながらしば

らく歩くことにした。

 彼女を伴って、4・5分歩くと、彼女は環状線の脇道に向かって右折した。中に入ってし

まえば、すぐそこは住宅街だ。安心して、心の中で別れの挨拶をした瞬間、彼女は肩にかつ

いでいた傘を、背伸びをしながら天高く捧げんばかりに空中に浮かせながら歩いていった。

 その様子を見て、なんだかモヤモヤするような記憶の渦が脳裏によみがえる。黄色い傘と

別れて、しばらく思索の結果、雲のかかった頼りない脳味噌で、10年近く前のことを思い出

した。


 その日、白山通りだったか本郷通りだったか、雨の日の灰色の道を同僚といっしょに歩い

ていた。突然同僚は、黄色い傘の少女と同じように、ビニール傘を恥ずかしげもなく思いき

り上げる。

「なにしとんや?(なにしてはりますの?)」

「傘が小さいから濡れないようにしてる」

 不思議なことをする同僚であった。

「応用力ないやつやのぉ、バカか? お前」

「???」

 それから、雨は地球の引力で引き寄せられてる状況や、その雨は地核に向かって落ちてき

てることの説明・・・つまり、無風状態を仮定すれば、雨は地球の中心に向かって降ってい

るに決まっているので、落下の航跡は逆円錐状であることをとうとうと説明した。

「だから、少しでも濡れまいとすれば、傘をできるだけ身体に接近させるというのが正しい

行いなのだよ、ボケナス君・・・」

 地球が丸いことも、雨が引力によって落ちてきていることも同僚は小学校のころから、知

っているに違いないのに、その関係をイメージすることができてないのであった。まさに、

応用力のないやつなのであった。もちろん、遠方からの落下なので、その航跡はほぼパラレ

ルに違いなく、どっちみちあんまりかわりばえしないという補足も加えて説明してやったの

だ。同僚は納得しない顔であったが、素直におちゃらけな格好を解除した。

 しかし、説明した当人もなんとなく納得がいかなかったのだ。いや、ロジックは正しいは

ずだ・・・小学校低学年レベルの頭脳で理解できる問題だ。と思っても感情のどっかにひっ

かかって、なんとも気持ち悪い思いをその時に抱いたのだった。


 そして今日、あの時なぜ、気持ち悪い合点のいかぬ感情を抱いたのか、少女の振る舞いを

見て再び考える機会を得たのだった。同僚や少女の振る舞いが雨を多くさえぎるための、素

直なイメージによる行為であったとしたら、雨の航跡は円錐状でなければならない。つまり、

ある一点から落ちてきているというイメージである。このイメージが人間が引力を学習する

前の本能的イメージであるとすれば、どういうことであるのか? 私自身も素直に考えてみ

れば、傘はできるだけ上にあったほうが濡れにくいという直感的なイメージを持つことがで

きる。

 単純な錯覚か? 太陽の光が大地に放射状に注いでいるような、正しくないイメージなの

だろうか? しばらく、考えているとちょっとしたアイデアが浮かんできた。

「バードアイヴュー(鳥瞰)だ・・・」


 ここからが、またまた、仮説おたくの不確かな証明のできないアホダラ世界の発揮なのだ。

雨が放射状に注いでいる(漏斗イメージと名づける)と思わせるのは、上空にある一点の注

ぎ口を仮定しているからに違いない。問題はなぜそういった仮定をしてしまうかである。

 ちょっと大げさな話になって申し訳ないが、人間が森から出てサバンナなどの草原で直立

をおぼえてしまったという仮説を信じるならば、自分の位置を推し量るための指標に苦労し

たということは安易に想像できる。現代人にはほぼ不必要と思われる、古代人の遺跡に頻繁

に登場する熱心すぎる天体観測の痕跡や都市設計に現れる碁盤の目の路地も問題は自分の位

置を知るための所作に違いないと思う。そういった視神経に偏った優れた方法論を開発する

前の文明前の人類はそれを違った方法で行っていたに違いない。

 指標のない場所で生活を営むためには、昆虫でもその他の動物でもひと工夫いるのである。

ハチやアリの情報交換しかり、こうもりの超音波反射しかり、犬の体臭散布しかりである。

文明前人類はおそらく視神経を主に利用した目印をいろんなところに作ったに違いはないだ

ろう。簡単な目印のようなものである。しかし、計画性をあまりもたぬ狩猟時代において、

瞬間的なカーナビのような能力が備わってないと、少し心配だ。小高い丘から獲物を見下ろ

し狩猟担当に声や音で情報交換をするということももちろんやっただろうが、自分の眼球よ

り遥かに高い位置から自分のまわりの風景を見下ろすというイメージを頻繁に用いたに違い

ない。猛禽類などの空襲を避けるための意味もあったろうが、今でも生きた人間を襲う猛禽

類はほとんどなく、それよりも、自分の位置や状況を推し量るための視線を持っていたに違

いない。平地でビクつきながら生活してたならば、そのイメージ能力は相当なもんであろう

と想像できる。なんらかの能力がそこに発生した(超能力みたいなもの)と考えられなくも

ないが、考えやすいのは、今はほとんどその能力をバラバラに使っているようにイメージし

てる、視覚・聴覚・嗅覚・触覚、あらゆる感覚を統合して、上方からの視覚イメージに転換

していたと考える方が考えやすい。前頭葉が情報を統合して視覚野にバンバン垂れ流してい

たのではないか(ここの知識は間違ってるかも)? 大脳皮質が発達するに従って、それよ

り確かに視覚化しやすい指標となる人工物を作成できるようになり、その能力はだんだん脳

の奥へと埋没していった。


 なるほどね・・・いいアイデアだな。だれか証明してくれよ!


 人間がなんで山に登るか? 簡単なことだ、高いところが好きなのさ。なぜって? 大昔、

高いところから見下ろすという視線を多用してたからね。あんまり使わなくなってさびしい

のさ。そいで、登ると思い出すのさ・・・ガキほど高いところが好きやろ? ガキほど猿に

近いからね。


 こんなことも言えてしまう。すばらしい!


 もし、その能力を初期人類が多用していたとしたら、それは相当なイメージ能力だったろ

う。どんなに細かな情報も漏らさず映像化して、その映像はかなり正確なものだったに違い

ないのだ・・・ワクワクするぞ!

 冷静になって、その能力がすべて消えてしまってるのか、試してみればいい。例えば歩い

ているとき、自分の頭を見下ろすようなイメージをもってみるといい、ビルの上から、見下

ろして屋上の状況をイメージしてみるといい。正確とはいえないけれど、結構安易にイメー

ジできるのに驚かないだろうか? そもそも、人間には見えない方角から三次元的にそのも

のをイメージする能力はそなわっているのだから、この話がオカルトでないことは理解して

もらえると思う。ただ、大昔はかなり正確に精密に組まれた像を見ていただろうという想像

でしかないのだが・・・


 そこで、もうひとつそれにまつわるであろう記憶がよみがえる。

 20余年前。

 岡山県の勝山町の山道を自転車で走っていた。にわか雨にたたられて、全身びしょぬれに

なりつつも、夜の山道を下っているときのことだった。しばらく走ると、小さな渓谷があり、

周辺地帯は工事中であった。小さな渓谷は正式に架橋されておらず、雨に濡れた造船に使わ

れるような厚板(厚い鉄板)で覆われているだけだった。

 その景色は接近するまで理解できなかった。自転車のクセというのは、車や人が見えなく

ても道路の左側を走るというものだから、その濡れた厚板の左端へ進入した。私は地面の違

和感をおぼえて、はじめてどういう状況にあるのかを理解した。ふと、左下を見ると暗がり

の黒淵が拡がっており、怖ろしくなってブレーキをかけて減速しようとした。それが、いけ

なかった。濡れた鉄板の上でブレーキをかけるというのは非常識である。そんなのは冷静に

なればわかるものだ。しかし、危険回避からブレーキという過程は反射神経の領域で間にな

にか別の思考を差し挟むなんて、気の利いたことができなかった。

 案の定、タイヤはロックして鉄板の上を無秩序に滑った。身体が行きたくない方に傾ぐ。

気絶しそうなる。瞬間・・・

「あっ、死んじゃった・・・バイバイ」

と、実に落ち着いたというか、リラックスしたというか、脱力したというか、その類の観念

に襲われる。抜け殻みたいな精神状態だ。それでも、2本の足はあきらめが悪かったらしく、

それはもう頭をもがれた虫けらみたいに、ペダルを踏み続けていたのだろう。

 ジャイロ全開! 見事傾いだ身体は復帰し、寿命は縮みはしたかもしれないが、なんとか

事なきを得た。幸せだった。


 この一連の小さな経験を映像として記憶しているのだが、そのアングルが不思議なのだ。

谷底を覗くまではちゃんと、自分の視力によってとらえているのがわかる。自転車のハンド

ルの上50センチメートルくらいの位置にカメラを置いているような具合だ。しかし、それ以

降の状況、つまりタイヤがロックして復帰するまでのアングルが右45度くらい上方、距離に

して5メートルくらい離れた位置にカメラを設置して撮影したような映像しか記憶に残って

ない。危険を感じてから復帰するまでは、目は見開いたとしてもなにも見てなかったのかも

しれないし、もしかしたら閉じていたのかもしれない。しかし、映像は記憶に残っている。

 まぁ、人間の記憶は主観やらさまざまな要素で、ウソっぱちに再構成されるものだから、

あんまりあてにならないものだ。この記憶とてぜんぜんあてにならないのはわかっている。

 しかし、視神経があてにならなくなったときでも映像を確保しようとする脳味噌の勝手な

振る舞いはあるんじゃないか? そんな感じがする。


 臨死体験。

 死にかけた人間が、その時の医者や看護婦の動きを正確に言い当てて、びっくらさしてし

まうという、あれですな。ここ何年かいろんな仮説がでてるらしい。原文にあたったことが

ないので、詳しい人がいたら教えてほしいのだが、かい摘んだ記事なんかを読んだ記憶があ

る。

 創価学会広報タレントの帰納的な説は「ファンタジー」と言い切ってもコアな信者さん以

外の異論はないと思うので無視するとして、記憶の断片として残っている、解剖学者・フリ

ーライターおよびその取材対象者・思想家の意見を私の理解として列記してみる。実名を出

さないのは原文にあたってないので、私が正確に理解してるとは思えない。ちゃんと読んで

理解してないのに勝手に引用するわけにはいかんからね。ただ雑記だし、適当に流して書く

といった具合で、あまり信用しないで聞いてほしい。


1、死に接することによって、脳内の血流が下がり過去の記憶を再構成して映像化してしま

  うという説。

2、死に近づくと、ある部分に脳内物質が平常時より多く流れ込み、それが映像を司る部分

  に近いため映像が現れる。

3、死を予見した脳に、退行する序列があり、生命を維持するために遠い順から退行しはじ

  めて、古いところに属する感覚器官(たとえば聴覚)に多く依存するようになり、それ

  がかつて感覚器官として未分化時のときまで退行して映像を作り出す(つまり、視覚と

  聴覚は神経として未分化な時代があったということ。耳で見る、皮膚で聞くのような本

  来の能力があって、死にいたる途中でその能力が発揮される)。


 なんとなく知っているのは、この3つくらいだ。最前線ではもっと立派な仮説があるんだ

ろうが、常人の理解できる文章であれば紹介してほしい。


 それで、雑記の中のヨタ文章で書いてしまうのは、ほとほと失礼でありますが、上記の説

の1と2はつまり、幻だと言っているに違いなく、医者や看護婦の動きが見えたなどどいう

ものは、あとで仕入れた情報の再構成だと言っているに違いない。まぁ〜不整合はないです。

3はちょっと違ってて、古層の感覚器官の能力の再構成ってことです。細胞分裂を繰り返し

てヒトになる過程の逆を死に際してたどる。身体は卵子まで退行できるわけではないので、

神経だけが逆行するというイメージなんだと理解する。これは、医者や看護婦の動きが上方

から見えるというのを同時性において説明できる説だ。つまり死にかけると視力が失われて

てもあらゆる生きた神経が総動員で映像を作り出すという説。

 映像というと、どうしても可視光という電磁波にたよりがちだが、そうでないことは誰で

も体験的に知っている。


 私は、この3の仮説に、少女の黄色い傘にみられる漏斗イメージとウソかまことかわから

ない体験的記憶を加味して・・・


 人間は絶えず、上方から見下ろすイメージ構成するようになっており、ヒトに成り立ての

ころは生活に欠かせない重要な感覚であった。文字などの発明によって視神経を合理的に利

用することで、より正確に安全な生活をおくれるようになって、その能力は表面化すること

が少なくなった。しかし、死にかけたり、漠然とした夢想状態、パラノイヤなどの疾病状態

では視神経は優位性を失うので結構安易に表面化(スイッチ)してしまう。特に死にかけた

状態では、脳内の血流不足によって、スイッチが正確に行われる場合があるので、その能力

はヒトに成り立てのときの能力と同じくらいに発揮される場合もある。


 という稚拙な仮説。

 つづきはたのむぜ! よっ! 脳味噌学者!!





1999/07/24  も ど る  

もうひとつのカード地獄

#「かちわりどうで〜♪」のカチワリ氷 ×


 オレって金持ち! なぜってこんなに財布がブ厚いのだからね!

 などとぬかよろこびなんかしてると、実際に財布あけてびっくらこくね。紙幣以外の、必

要なんだか、必要ないんだかわからない、紙やプラスチックの板がわんさか入っている。

 頭にきて「こんなもんいるか!」とゴミ箱に直行させると、買い物にでかけてレジを通る

ときに・・・

「○×○○カードお持ちですか?」

 そんなもん捨てちまったい、ふん。なんて言えないですから・・・

「いいえ」

って応える。

「お作りしましょうか?」

小さな勇気を振り絞って、

「いいです」

「じゃ〜 お作りしますね」

「だから、いいってば」

「いいんですね!」

「いや、そういう意味じゃなくってね、チミチミ。いらねぇ〜っての!」

「お得なのに〜っ・・・お客さ〜ん。このカードは魔除けにもなりますのよ、ホホホッ♪」

「じゃ〜もらっとくかな・・・」

 なんてやりとりは絶対ないけど、カードさえ持っておけば、レジのディスプレイに出てる

金額とカードをスッと出して、赤いバラをくわえてスマートに2・3回ターンしてれば、品

物とカード、ときにはお釣りなんかが目の前にあらわれる。世紀末だな。

 カードをもってないと、うざったいやりとりを必ず強要される。


 たしかにね、昔から文具店なんかの「サービス券」なんかあったさ。スタンプ式のものや

商店街が共同で発行してるシールの台紙とかね。しかし、ここ10年の顧客囲い込み戦術によ

るカード発行には泣くね。どこもかしこもカード、カード。セブンイレブンがPOS管理を

国内で始めるようになって、ロジスティックスのテコ入れによる利益発現なんて、消費者か

らみれば無味乾燥なことが重要な主題になって、どんな商品でもフランチャイズ展開がしや

すくなったのが第一段階か? 必然的に取扱い商品が似通った競合関係が各小売店ではっき

りしてくるし、せっかくのPOS管理だから、顧客データを緻密に分析して、商品開発部門

や購買部門にフィードバックしようぜ! なんてのがおこってくるな。どうして? どうし

ても!

 そいでもって、需要に伸びがある間は「いいやこのままで」ってことだろうけど、伸びが

止まると、同一パイのぶんどり合戦に突入し、囲い込み戦術を実行せねばね・・・ってハナ

シ。

 それが、このブタ財布の正体だとしたら、悲しいね。消費者不在って訳じゃないけど、買

う側の機微やエゴイスティックな情動をツルツルに判断されてるようでね。現代人は実用を

もって消費してるだけじゃないってことに違いないから「消費=娯楽」ってところに、もっ

と突っ込んだ企画を考えて欲しいよな。

 どこもかしこも、養鶏場でエサまいてるみたいにカード、カードだとさ、ありがたみがぜ

んぜんわかない。だから囲い込みにおけるカードの有効性については、もう少しすれば疑問

視されることになるんだと思う。


 つまりね、蔓延してしまえば、効果はなくなるよってこと。

 最近、東芝と個人がインターネットで対峙して、公的判断なしに勝った〜♪ なんて喜ん

でる市民主義文化人なんてのがおわしますな。個人はインターネットの恩恵で企業に対する

重要な武器を持ったなんてね。アホですな。あの問題はどこまでつきつめても、個人とある

企業間に起こった折衝問題であって、資本主義の罪とか大企業の原罪なんてところにいくわ

けがないのに、そういったそぶりで大騒ぎしてみせる鼻くそ文化人の言うことなんか信用し

ちゃいけませんことよ。

 簡単なことだ。電話が普及してない時代に、企業は電話サービスセンターを用意してなか

ったでしょ? たまたま、新しもの好きのヒトが担当営業なんかに電話でクレームいれてみ

たらさ、そらすごいことやね。手紙のやりとりとか、公的機関に苦情持ち込むなんてめんど

くさいこと考えたら、泣き寝入りなんてことになってたのに、電話の恩恵で簡単に処理でき

るようになった、なんてね。供給者と消費者の関係なんてのは基本的には変わってないよ。

ただ、これから生き残る企業ってのは、インターネットに注意深くなるだろうってことだけ

だ。


 だって、インターネットの自分のホームページでだれでも簡単にあれくらいのことできる

ようになったらさ。今回のような効果はなくなるんやで? 蔓延すれば効果は極限までなく

なるってこと。


 だから、小売店のヒトもカード以上の娯楽を見つけて早く提供してくださいな。


 最近、タバコと雑誌なんかは、とあるジジィがやってる古い店で買うことが多い。

 なぜって?

 だって、10回に1回くらいは、お釣り間違えそうなんだもん、ジジィって。そのスリルが

たまらないね。

 これって、娯楽だ。

 ジジィはスタンプのかわりに下らない世間話を持ちかける。それは、それで、つらい・・・